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「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(5)

『蜘蛛の糸』の朗読の研究、今回は(二)の地獄のシーンです。
激しい動きがあります。聞き手と息を合わせてハラハラドキドキ。

 まずは解説から。

 さあ、(二)に入りますと、地獄の底の風景とそこにあるカンダタの様子が描かれていますから、私は、毎日同じことの繰り返しの、暗い、動きのない表現をしてみました。しかも、ここで自分も体験しているような主観的な表現もいれますと、なお、地獄の暗さが強調されると思います。

 「ところが、あるときのことでございます」。と、ここで、毎日変化のなかった地獄の生活に、彼にとって大事件が起こりました。救いの蜘蛛の糸が垂れてきたからです。さあ、カンダタは手を打って喜びますから、ここで話の調子は一転して、暗さから明るさへと変わります。そして。この後のカンダタの感情と行動は、読んでいる自分がカンダタになった気持ちで、つまり主観的に表現して、ぐんぐんと盛り上げていきます。

 しかし、その盛り上がりも、カンダタの疲労で、また調子が変わります。疲れを表現するつもりで、「しかし、地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみたところで、容易に上へは出られません。ややしばらく登るうちに、とうとうカンダタもくたびれて」、こんな具合に調子を落とします。それでも、下をみると、一生懸命に登ったかいがあって、地獄の様子もはるか足の下になって見えるのですから、カンダタの喜びはエスカレートいたしまして、ふたたび読み方も盛り上がっていって、「しめたしめた」の声で最高潮に達します。

   ※   ※   ※

 この部分の朗読です。

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすかな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたからは、カンダタは早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中に、とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。

   ※   ※   ※

 暗い変化のない地獄の心細さ。突然、手を打って喜ぶようなことが起こります。カンダタは遮二無二蜘蛛の糸にしがみつき、わき目もふらず上へ上へと昇っていきます。「しめた。しめた。」と笑います。
 この気持ちの変化。聞き手はカンダタと一緒になってワクワクします。ところが、、、
 まだまだこれから物語の一段と大きな波が押し寄せてきます。これは次回に研究しましょう。

 物語の語り手として読む部分、カンダタの気持ちになって読む部分。読み分ける必要があります。といって、あまりにも演劇的になっても聞き手は白けてしまいます。バランスですね。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(4)

 引き続き『蜘蛛の糸』の朗読の研究をしてみます。
 今回は、大切な言葉をしっかり伝える、ことについてです。

 まず解説を聞きましょう。

 「それでもたったひとつよいことをした」とか、「小さい蜘蛛がいっぴき」などは、この作品の内容から言って、大切だと思いまして、私は、ゆっくりと読んで強調してみました。このように、あるところでは早く、あるところではゆっくり話すリズムは、もちろん内容によって表現を変えていく訳ですが、これが朗読のリズムの大きな要素の一つだとお考えください。

 続いて、カンダタが足を上げて蜘蛛を踏み殺そうといたしますが、思い返して助けてやる場面でございます。踏み殺そうといたしましたが、ふと考えて、「いやいや、これも小さいながら命のあるものに違いない」と、思い返します。ですから「踏み殺そうといたしましたが」のあと、ちょっと「間」をおいて、「いやいや」と思い返す言葉を言わないと、考え直す余裕がありませんね。こんなところに「間」の重要性があります。

 それから、そのことを思い出されたお釈迦様の慈悲深いお心と、カンダタを救い出す方法が、このあと続きますが、お釈迦様のお心になって読みたいと思いますし、お釈迦様が蜘蛛の糸を「そっと」お手におとりになるのですから、「そっと」のやさしい言い方にも気をつけていただきたいと思います。

 この部分を朗読で聞いてみます。

 と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをおおろしなさいました。

   ※   ※   ※

 どの文章にも、特に伝えたい大事な言葉があるのですから、聞き手にしっかり受け取ってもらわなければなりません。「間」が大切なことは当然ですが、「間」だけの問題ではありません。「テンポ(緩急)」「リズム(躍動)」「イントネーション(抑揚)」「プロミネンス(卓立)」「チェンジオブペース(転換)」など、さまざまな方法で、大切な言葉を伝えます。
 もちろん、感情を入れず、淡々とすべて同じ調子で読む方法もあるでしょう。しかしこの「蜘蛛の糸」のような想像を超える物語の場合、聞き手の感情に添って、言葉、そして状況をはっきり伝えることが、とても大事のように思います。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(3)

  1. 『蜘蛛の糸』の朗読の研究を続けます。
    今回は、文章のひとつひとつにイメージがあり、その雰囲気を伝える、ことについてです。

 まず、解説の方から

 続いて、極楽の蓮池の下から見える地獄の景色の説明になりますが、極楽は明るく、そして地獄は暗く、と、対比して言いたいものです。すると、こうなります。「この極楽の蓮池の下は」「ちょうど地獄の底にあたっておりますから」「水晶のような水を透き通して」「三途の川や針の山の景色が」「ちょうど覗きめがねをみるようにはっきりとみえるのでございます」と、読んでいきます。それに続いて、地獄にいるカンダタの様子が出てきますね。「するとその地獄の底に」、この「すると」も言い方によって、動きが出てきますね。それから、「うごめく」という言葉が出てきますが、この言葉なんか、いかにもその様子をあらわしたいい動詞ではありませんか。

 この部分の朗読を聞いてみます。

 この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢(うごめ)いている姿が、御眼に止まりました。このカンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。

 これに加えて、並べて語るときの注意点が解説されていますので、それも示しておきます。

 「このカンダタは、人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが」と、ここで、カンダタの悪事の説明がありますが、これは「人を殺したり」「家に火をつけたり」そのほか「いろいろの悪事」を働いたのですから、ただ、この3つを並べて言うのではなくて、「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ、悪事を働いた」と「いろいろ」の言い方は、悪事をまとめて言う感じで、悪事を強調して言うべきでありましょう。

   ※   ※   ※

 どの文章にも、伝えたいことがあるのですから、聞き手が充分理解できるよう、作者の気持ちに代わって伝えてあげることが望まれます。また、物語であったり、考え方を述べた文章であったり、事実を淡々と伝える文章であったり、それぞれの文章の持つ雰囲気がありますから、それにふさわしい読み方が望まれます。それを探る作業が、朗読の醍醐味ともいえます。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(2)

 前回に続いて、泉田行夫が芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を朗読し、自ら朗読の技術について解説したものから、ご一緒に考えてみたいと思います。
 今回は、文章のひとつひとつに役割があり、同じ調子に読まない、ことについてです。

 まず、解説を聞いてみましょう。

 さて、この蜘蛛の糸は、1、2、3と大きく3つに分かれておりますね。1は極楽のお釈迦様が中心で、私は、これを読むとき、静かな読み方をいたします。2は、カンダタの地獄脱出で、動きの多い表現をいたします。3は極楽のお釈迦様に焦点を合わせますから、静かに、つまり、静、動、静、と大きく掴んで読んでいきます。
 しかし、1だけを取り上げても、はじめに、ある日という時間のこと、お釈迦様は、という登場人物の紹介、極楽の場所の紹介などがありまして、次に、池の中に咲いている蓮の花は、と、極楽の風景描写に移ります。そして、次は、お釈迦様が池の中を覗かれる場面になると、はじめの説明紹介に比べて、お釈迦様が行動される、つまり、動きをだしていく読み方になります。こういう具合に、細かく、細かく変化を加えていく訳であります。

 それでは、本文の朗読を少しずつ聞いてみます。

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

 時間や場所、登場人物の説明・・・さあ、おはなしが始まりますよ

 池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

 極楽の風景描写・・・美しい景色ですね

 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。

 お釈迦様に動き・・・何か始まりましたよ

 ここで、この「やがて」の言い方について解説がありますので聞いてみます。

 ここから、お釈迦様のお動きになる様子が描かれておりますが、この、「やがて」の言い方でお釈迦様の動作が出るのです。ちょっと聞いてみてください。「やがておしゃかさまは・・」これでは、お釈迦様はお動きになりませんでしょう?
「やがてお釈迦様はその池の淵に」こういうと、お釈迦様はお動きになりますね。この「やがて」にその気持ちを入れて言ってほしいものであります。
 この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。

 状況の解説・・・実はこうなっているのですと説明します

   ※   ※   ※

 まさに、それぞれの文章にそれぞれの役割があり、それぞれの読み方があるようです。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(1)

 幸田弘子先生の朗読の魅力について語ってきましたが、しばらく、幸田先生の朗読と離れて、朗読そのものについて語ってみたいと思います。

 泉田行夫が芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を朗読し、自ら朗読の技術について解説したテープが残っていますので、少しずつ、ご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、『蜘蛛の糸』の糸が切れる場面をお聞きください。

 その途端でございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下がっている所から、ぶつりと音を立てて断れました。
 ですからカンダタもたまりません。あっと言うまもなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 あとにはただ 極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
   ※   ※   ※

 この部分について泉田行夫は次のように解説しています。

 さあ、そのあとは蜘蛛の糸が切れて、カンダタの落ちていく場面ですが、こうした、落下する早い場面の表し方は、文章の途中に入っている句点や読点をとってしまいまして、「ですからカンダタもたまりませんあっという間もなく風をきって独楽のようにくるくる回りながらみるみるうちに闇の底へまっさかさまに落ちてしまいました」と一気に読み下すと、スーッと落ちていく様子が出てまいります。

 その後は、もとの静寂に帰りますね。その表し方は、今の言い方と反対に、短く、プツッ、プツッ、と切って読むと、その感じが出ます。「あとには・・・ただ・・極楽の蜘蛛の糸が・・きらきらと細く光りながら・・・」、こんな調子ですね。
 いかがですか、このあたりが、「蜘蛛の糸」の一番盛り上がって、ふたたびもとの動きのない静に帰る、山場といえましょう。

   ※   ※   ※

 長い解説文の中から、いきなり核心の部分を取り出しました。
ここに至るまでの解説も興味深いものですから、次回から少しずつ研究してみましょう。

 【コチラから泉田行夫の読んだ「蜘蛛の糸」全編が聞けます】


言葉の音楽性(3)

 今回も、幸田先生の朗読の「音楽性」を鑑賞しましょう。
「たけくらべ」で信如が美登利の住まいの前で鼻緒を切る場面の続きです。
 (キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より)

 此處は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直あゆみに爲しなれども、生憎の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下に紙縷を縷る心地、憂き事さま/″\に何うも堪へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水をかけられるが如く、顧みねども其人と思ふに、わな/\と慄へて顏の色も變るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を盡すと見せながら、半は夢中に此下駄いつまで懸りても履ける樣には成らんともせざりき。

 庭なる美登利はさしのぞいて、ゑゝ不器用な彼んな手つきして何うなる物ぞ、紙縷は婆々縷、藁しべなんぞ前壺に抱かせたとて長もちのする事では無い、夫れ/\羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が轉がる、あれを疊んで立てかけて置けば好いにと一々鈍かしう齒がゆくは思へども、此處に裂れが御座んす、此裂でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立盡して降雨袖に侘しきを、厭ひもあへず小隱れて覗ひしが、

 さりとも知らぬ母の親はるかに聲を懸けて、火のしの火が熾りましたぞえ、此美登利さんは何を遊んで居る、雨の降るに表へ出ての惡戲は成りませぬ、又此間のやうに風引かうぞと呼立てられるに、はい今行ますと大きく言ひて、其聲信如に聞えしを恥かしく、胸はわくわくと上氣して、何うでも明けられぬ門の際にさりとも見過しがたき難義をさま/″\の思案盡して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、

 見ぬやうに見て知らず顏を信如のつくるに、ゑゝ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涕の恨み顏、何を憎んで其やうに無情そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方にあるを、餘りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼聲しば/\なるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ゑゝ何ぞいの未練くさい、思はく恥かしと身をかへして、かた/\と飛石を傳ひゆくに、

 信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる、そゞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。

   ※   ※   ※

 ふたりの「思い」、すれ違い、そしてポツンと残った「紅入り友仙」。
 拾って追いかけて行って、信如に持たせたいようなシーン。
 ことばで、映画のシーンを映し出し、オペラのクライマックスが演奏されています。

 どうぞ、キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く 樋口一葉 で全編を通してお聴きください。

 

 


言葉の音楽性(2)

 今回と次回は、蘊蓄なし。幸田先生の朗読の「音楽性」を鑑賞しましょう。
「たけくらべ」で信如が美登利の住まいの前で鼻緒を切る場面です。
 (キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より)

 お齒ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで來し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずる/\と拔けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。
 信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急れども、何としても甘くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓み出し、ずん/\と裂きて紙縷をよるに、意地わるの嵐またもや落し來て、立かけし傘のころころと轉がり出るを、いま/\しい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乘せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。
 見るに氣の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でゝ椽先の洋傘さすより早く、庭石の上を傳ふて急ぎ足に來たりぬ。
 それと見るより美登利の顏は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐る/\門の侍へ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足になりて逃げ出したき思ひなり。

 


言葉の音楽性(1)

 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の中で、「言葉の音楽性」に触れた箇所があります。

   ※   ※   ※
 女優の村瀬幸子さんがおっしゃっていました。
「平井すみ子さんにお三味線を習ったとき、『日本の音楽には、旋律がある。それは日本語の旋律なのです』と言われた。その旋律をだいじにしていけば、小さい声でも意味がわかるように話せるはずです」
 言葉の音楽性がいかに大切か、ということを教えてくれる話だと思います。(p.75)
   ※   ※   ※

 私は、幸田先生の読まれる『たけくらべ』の冒頭が大好きです。音楽性を感じるからです。

 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、

 大音寺前界隈の情景が語られ、やがて、信如、長吉、美登利、三五郎、正太郎について語られます。一巡して、それぞれの家庭の事情とそれぞれの複雑な心の内が語られていきます。
 ところが、突然、季節の移り変わりの記述が入ります。この部分が美しい。幸田先生も「朗読の楽しみ」の中で次のように述べられています。

   ※   ※   ※
 作品のなかでも、やはり読みたい場所があって、その前のむずかしいとことを乗り越えてたどりついたときには、解放感も手伝い、とてもうれしくなるのです。
 『たけくらべ』の「春は桜の~」などは、その代表。いまでもあそこに来ると、身が引き締まって、さあ聞いてほしい、なんて、わくわくしながら読んでいます。朗読冥利に尽きる、といった感じがするのは、そんなときかもしれません。(p.111)
   ※   ※   ※

 春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事此通りのみにて七十五輛と數へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懷爐灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそゞろ哀れの音を傳へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里の火の光りも彼れが人を燒く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町藝者が冴えたる腕に、君が情の假寐の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、此時節より通ひ初るは浮かれ浮かるゝ遊客ならで、身にしみ/″\と實のあるお方のよし、遊女あがりの去る女が申き、
 (キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より)

 この心地よさ。「言葉の音楽性」のなにものでもないように思います。

 さあ、いよいよここから、信如と美登利の「思い」の行き交う、あの「思ひの止まる紅入の友仙」が雨に打たれる切ないシーンへと進んでいきます。
 樋口一葉の「構成の妙」にも感動します。


朗読するまでの正統な手順

 「セリフの読みのむずかしさ」や「<間>の問題」についてのべてきましたが、けっきょく、「朗読するまでにどれだけ深く読み込むか」が何よりも重要であるということだと思います。
 この点に関しては、私の父・泉田行夫(俳優・ナレーター・朗読家)も次のように書き残しています。

   ※   ※   ※

 朗読するまでの正統な手順

 1.まず、黙読によって朗読材料となる文章の意味内容や情調を充分理解する。

 2.朗読するという立場に立って微音読し、意味や情調の理解を深めると共に材料の言いまわしに欠陥があったら修正する。

 3.発声発音を正しくし、同時に内容や情調にふさわしい表出法を工夫する。(口ならし読み)(練習よみ)

 4.指導者や仲間から指導や助言を受ける機会があれば、ためしに読みあげてテストしてもらう。(ためし読み)(テストよみ)

 5.テストを受けて自信をつけた後、さらに一段とくふうして聞き手にむかって朗読をする。(これが本当の朗読)

   ※   ※   ※

 テキストを見て、すぐに声を出して読むのではなく、まず、心の中で何度も読んでみて、声に出したくなるまで待つことがポイントのようです。


行間の余韻と部分カット(2)

 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の中で、「要するに、カットする部分を、朗読の<間>やリズムで表現できるならば、そこはカットできることになります(p.109)」とありました。
 しかし、このカット作業は幸田先生にとっても、それほど簡単なものではないようでした。上記の部分に次ぐ記述は、その苦労を述べられています。

   ※   ※   ※
 <間>があるから伝えられるものもあるわけで、全部書きとってあると、ただ読むだけになるかもしれない。そうではなく、文章で書かれていないこと、いわば行間を読むというのが、朗読の醍醐味なのかもしうれません。私が古典を読む理由のひとつは、そこにあります。
 けっきょく、とくに現代文のばあいは、あるブロックをまとめて切るよりは、細かく刈り込んでいくことになります。CDやテープなどではもちろん、全文を録音することが多いのですが。
 舞台が近づくと、私はこの<剪定作業>に苦しむのです。自分で切り貼りして台本をつくるのが習い性になっていますので、もう必死。家族もピリピリしています。
 でも、けっきょくは心の問題という気がします。自分がどう読んだか、行と行のあいだをどう埋めていくか、書かれていないところをどう読むか。細かいテクニックは、そのあとの問題でしょう。
 現代文は、誰にでもわかる、誰でも読めるもの。しかしそれを、<間>も含めて心地よく聞かせるというのは、また別次元のことです。
 わざわざ来てくださる方に、朗読として楽しく聞かせるのはむずかしい。現代作品の朗読では、そういう苦労がつきまといます。(同 p.109)
   ※   ※   ※

 朗読は、作者が命がけで書いたものを手渡す作業です。「長いからちょっとこの辺をカットしよう」、そんな軽い気持ちでカットするものではなさそうです。
 読み込んで、読み込んで、聞き手の気持ちと、作者の気持ちに寄り添って、命がけで、取り組むべきものなんでしょうね。「心の問題」だそうです。肝に銘じましょう。