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「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(10)

 今回は、「文章の音声化」と「作品を伝える」ということの違いについて考えます。
 泉田行夫は、こう解説しています。

 さあ、それでは、朗読についての話に移りましょう。
 まず、あの人の話をきいていると居眠りが出る、と思うような話し方をする人がおりますね。これは、同じ調子が続いて、変化の無い話し方です。この「蜘蛛の糸」のはじめの部分を、そんな調子で読んで見ましょうか。
 「あるひのことでございます。おしゃかさまはごくらくのはすいけのふちをひとりでぶらぶらおあるきになっていらっしゃいました。いけのなかにさいているはすのはなはみんなたまにようにまっしろでそのまんなかにあるきんいろのずいからはなんともいえないよいにおいがたえまなくあたりへあふれております」。
 いかがですか。これでは聞いていて、居眠りが出てくるでしょう。音楽だって、タンタンタンタン、タンタンタンタン、タンタンタンタン、と変化が無かったら、聞いてはいられませんねえ。
 日常、人と話をしている場合でも、また、文章を読む場合でも、短いとか長いにかかわらず、それぞれ内容が違うんですから、内容によって表現も変化するのが当然です。この「蜘蛛の糸」で言うなら、「ある日のことでございます」というのと、次の、「お釈迦様は極楽の蓮池の淵を一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」と、この二つは、内容が違いますね。内容をよく知って読みましょう。そして、相手に本を読んで聞かせるというよりも、本の内容を話してやる、こういう表現でありたいと思います。
 従って、一つの文章のどこを聞かせなければならないかを、つまり、そのポイントをしっかりつかまえて読んでいくと、おのづから表現に変化が出てまいります。
   ※   ※   ※

 NHKのラジオ講座テキスト「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」に、こんなことが書かれていました。

 文字を音にしないで、意味を音に
 「読むを話すに近づける」ということは、書かれている文字を手がかりに、文字で組み立てられている文の意味を話していくということです。(p.46)

 幸田弘子先生のご著書「朗読の楽しみ」の中で、こう述べておられます。

 自分だけで読んでいると、おうおうにして読み方が「独善的」になる、という問題が生まれます。ひとりよがり、自己満足ということですが、そんな読み方だけでやっていては、自分でもものたりなくなったり、すぐにあきてしまう。人にも伝わらなくなります。・・・
 「聞き手にわかってもらう読み方」がここに出てくるのです。はじめて「作品を伝える」読み方に意識が向くわけです。(p.68)・・・
 「自分がわかっていないところは聞き手にもわからない」ということです。
 「聞き手にわからせるために、まず自分がわかっておくこと」
 読むときには、意味もつかめないまま読むのではなくて、やはり何が書いてあるか理解してから読む。あたりまえですね。(p.69)

 朗読と「文章の音声化」とはだいぶ違うようです。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(9)

 今回は、鼻音です。
 泉田行夫は、こう解説しています。

 次は、鼻音です。鼻の音と書きますが、がぎぐげご、でなく、がぎぐげご、と鼻を通して出す音です。においが、の「が」、地獄の「ご」、うごめいての「ご」などです。がぎぐげごの上に、「ン」をつけて言う感じです。「が」「ぎ」「ぐ」「げ」「ご」。この無声化と鼻音は、日本語の発音として、美しいということで、標準語の発音に取り入れられていますが、気をつけて何度も練習していると、できるようになるものです。

 註)本来鼻濁音の「が」は「か」に濁点の代わりに丸をつける(「ぱ」のように)ことになっていますが、このインターネットでは、特殊文字が表示できないので、「が」と表現しています。

 ちなみに、濁音が鼻濁音になる規則は、田代晃二著「美しい日本語の発音発音―アクセントと表現― 創元社」( P.34 )によると、
  ①ガ行音が<語中・語尾>にくれば鼻濁音となる
  ②語頭では鼻音化しない(合成漢語の後続部分の語頭も)
  ③擬声・擬態語は明瞭をたてまえとして語頭はもちろん語中も鼻音化しない。
  ④数詞も明瞭をたてまえとする純数詞は鼻音化しない。ただし数観念の弱い場合は鼻音化する。
  ⑤外来語は原則として鼻音化しない。古くからなじまれたもので鼻音化している語もある。

とありました。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(8)

 今回は、無声化です。
 泉田行夫は、「蜘蛛の糸」の朗読と解説の中で、こう述べています。

 それから無声化です。「ございます」の「す」、「蓮池の淵を」の「ふ」、「ひとりで」の「ひ」、などが無声化と言われている、声にしない音です。東京の人などの話す言葉が、歯切れよく聞こえるというのは、この無声化のせいなんです。声にして言いますと、こうなりますよ。ございます、はすいけのふちを、ひとりで、どうも歯切れよく聞こえませんねえ。
   ※   ※   ※

 「無声化」、気を付けて発音したいことは言うまでもありません。もっとも、何の苦労もなくできている人もいます。

 さて、「無声化」について、もう少し研究を進めてみましょう。
 無声化になる場合とならない場合、そして、無声化によってアクセントの位置が変わる場合、です。
 これについては前述の田代晃二先生の本(美しい日本語の発音―アクセントと表現― p.36 – P.38 )に詳しく書かれています。

 無声化が起こるのは
   【i】【u】が無声子音(k、s、t、h)に挟まれているとき。
   
     (pも無声化子音に含まれるという人もいます)

 また、「【i】【u】が無声子音の後で、語句の終わりの無声化」もあります。
    (https://www.hamasensei.com/museika/

 もっと詳しく解説しておられる方もいらっしゃいます。
    http://sanaeshinohara.blog8.fc2.com/blog-entry-9.html

 次に、無声化によってアクセントの位置が変わる現象です。
 以下、田代晃二先生の著書(前述)からの引用です。

   ※   ※   ※
 無声化とアクセント
 無声化した母音は響きが弱く、そこへはアクセント核を置きにくい。置いたつもりでも響かないので、位置が1音だけ逆のぼったり、次へずれたりする現象が起きる。この“ずれ”は特に形容詞や動詞の活用アクセントに関連して重要である。
   ※   ※   ※

 複雑ですねえ。個人的に、迷ってしまう例を挙げてみました。

   

 さて、今回の無声化は、とても私の手に負えないので、この辺にしておきます。


日本語のアクセントについて(5)

 今回も、雑感のつづきです。
 (間違っていれば、ご指摘ください。)

 テレビを見ていて気になりました。
 「父(チチ)」は頭高型でしょうか、尾高型でしょうか。
 また、頭高型に読むと、関西弁のようにも聞こえます。
 この辺を考えてみます。

 新明解日本語アクセント辞典(三省堂)にはこうありました。

 尾高型です。
 ただし、最初の「チ」は細文字になっていますね。無声音ということです。つまり声帯で音を出さない、子音だけの音です。

 「遅々として」の場合は

となっています。尾高型と頭高型の2つあります。頭高型の場合、最初の「チ」は有声音です。
 「父」を「チチ(高低)」で読むと、どうしても最初の「チ」を有声音にする可能性が高くなります。関西アクセントは、無声化しませんから、「父(チチ)」を頭高型に、最初の「チ」を有声化して読んでしまうので、関西弁に聞こえるということらしいというからくりが、理解できました。

 ネットで見ていると、同じように「チチ」のアクセントに違和感をもっておられる方がおられました。うれしくなりました。

  「父」のアクセントは?

 さて、この無声音もまた、悩むひとつです。特に関西出身の者はね。


日本語のアクセントについて(4)

 今回は、雑感です。
 日本語アクセントは素人の私ですが、感じたことを語ります。
  (間違っていれば、ご指摘くださいネ)

 「クマ」は頭高型なんでしょうか、尾高型なんでしょうか。
 「クマの好物は蜂蜜です」。「クマノ(高高高)」む?平板型ですか?
 新明解日本語アクセント辞典(三省堂)にはこうありました。

 ここで書かれている意味は、「これまでは尾高型に読む人が多かったが、最近は頭高型に読む人が多い」ということなのでしょう。ま、どちらが正しいとは言えないようです。

 では、助詞「の」がつくとどうなるか。
 ありました。巻末の「東京アクセントの習得法則」 p.(72) に表が載っていました。
 (一部を取り出して書き直しました)

 助詞の「の」が付くと、尾高型が平板型になるのが規則のようです。 
 う~ん、なんとも複雑ですねえ。

 さて、「父」はどうでしょう。次回、研究してみましょう。


日本語のアクセントについて(3)

 今回も、朗読における日本語アクセントの研究の続きです。

 前回は、「日本語の単語の一語一語にアクセントがあるのですが、文章の中では、なめらかに続けられる」ということをお話ししました。今回は、その「なめらか」ということを、別の文献から研究してみます。

 田代晃二先生の著書「美しい日本語の発音―アクセントと表現―」の中では、こんな図を使って説明されています。

 また、2009年にNHKラジオで放送された「NHKアナウンサーとともに ことばアップ」という番組のテキストには、次のような記述がありました。(p.112 「イントネーションの基本」安川宗親)

 アクセントは、一つ一つのことばについて決まっている音の高低の配置のことでした。
 しかし、実際に話をしたり、文章を声に出して読んだりするときに、個々のことばのアクセントは多少変化します。それに加えて、話しことばのセンテンス(文)にもアクセントとは別の、音の高低変化があります。これを一般にイントネーションと言います。

アクセントは文の中で消える?
 個々のことばを共通語のアクセントどおりにして話したら、どういうことになるでしょうか。
 「白い花が咲いています」
 この文を、文節ごとに明確なアクセントで読むと、文字を覚えたての子どもが音読するように幼くきこえます(図1)。
 
 次に、この文を普通に会話するようなつもりで声に出してみると、「シロイ」のアクセントは明瞭です。しかし、「ハナ」以降は、「ガ」のところで少し音が下がりますが、文の音調が徐々に低くなっていって、アクセント自体は高低差が少なく、きわめて不明瞭になっていることに気がつきます。
 この現象は、話し手の頭の中からアクセント感覚がなくなったのでなく、イントネーションに伴う現象なのです(図2)。

   ※   ※   ※

 同じ本の次のページに「アナウンサーは(下記の文章を使って)毎日イントネーションの練習をしてる」といったことが書いてありました。みなさんも試されてはいかがでしょう。


日本語のアクセントについて(2)

 今回は、朗読における日本語アクセントの研究の続きです。

 前回は、「日本語の一語一語は高低アクセントでできているが、文章になると、前後の関係から、アクセントが弱められることがある」ことを解説しました。
 「蜘蛛の糸」という表題の場合、「もの と」の「」の音が弱められて、「ものいと」となるということですね。
  (今回の説明では、高い音を太字で示しています。)

 もっとも、これが、「血かと思ったら、それは赤い糸でした」という文章なら、「糸」が重要になりますから、「それはあかいとでした」と「糸」が強調されるに違いありません。
微妙ですねえ。

 今回は、「蜘蛛の糸」の冒頭部分についての解説を聞いてみます。

 本文の最初に出てくる、「ある日のことでございます」、これもそうです。アクセントどおりに読むと、「るひの こで ございます」となりますが、これは、「るひ」の「」が高いものですから、「こで」の「」や、「ございます」の「ざいま」のアクセントが弱くなって低く続くために、「るひのことでございます」と、こうなります。これと反対に、「お歩きになっていらっしゃいました」の場合ですと、つけてあるアクセントのとおりに読みますと、「おあるきに って いらっしゃいました」と、なりますが、「って」の「」にアクセントがあるので、まるで、平らに聞こえる「おあるきに」を、高く上げて続きまして、「おあるきになって」、こうなります。その後に続く、いらっしゃいました、は、なっての「」にアクセントがあるものですから、その影響を受けまして、低く続いて、全部を続けると、「おあるきになっていらっしゃいました」と、こうなります。こうした現象は、この朗読の中のいたるところに出てまいりますから、気をつけて聞いておいてください。

   ※   ※   ※

 う~ん、微妙ですねえ。 
 日本語のアクセントについて、専門書・「美しい日本語の発音ーアクセントと表現ー」田代晃二著 創元社」には、次のような説明がなされています。

   ※   ※   ※

続きあがり

 2語以上が一気に言われるとき、先頭語が平板なら後続語のアクセントが生きてなめらかに続く:
 <おはようございます>は、<おはよう ございます>であるが“後続語の語頭が上がって先頭語の2階の高さに並び、あたかも1語のような姿となる<おはようございます>。
 同様に
 <おやすみ ない> ⇒ <おやすみなさい>
 以上は[平板から起伏へ]であるが、[平板どうし]でも同様!
 <まい かおを し い> ⇒ <まるいかおを している
 <決めて おい 行って しまった> ⇒ <決めておいて 行ってしまった

   ※   ※   ※

 日本語の単語の一語一語にアクセントがありますが、文章の中では、なめらかに続けられて、アクセントが弱められることがあるということですね。


日本語のアクセントについて(1)

 今回は、朗読における日本語アクセントの研究です。

 日本語は、英語などの強弱アクセントとは違って、高低アクセントであることはよくご存じでしょう。
 音楽で言うと、「ミ」と「ソ」でできている・・・、そう言える気もしますが、そんな単純なものでもないような気もします。詳しく考えてみましょう。

 キジ、イヌ、サル、モモタロー、を音程で言うと、
 ミソ、ミソ、ソミ、ミソミミー、と表現もできます。

新明解日本語アクセント辞典(三省堂)では

と表現しています。

 NHK放送文化研究所のホームページを見ると、最近は表示方法が変わったようです。

 この表現方法を使いますと
 キジ、イヌ、サル、モモタロー、をこの方法で表現すると、
 キジ、イヌ、サ\ル、モモ\タロー、と表記するそうです。
 キジは音程でいうとミソとキがジより低いのですが、NHK放送文化研究所の見解では、基本的にはキとジは同じ高さ(平板)なのですが、強調するような場合にキが低いのだそうです。(外国人に日本語を教えるときは、「日本語は必ず、1語目と2語目で高さが変わります」と教えます。なかなかうまく説明するのはむずかしいですね。)

 日本語のアクセントの型には以下の4種類があるのはご承知のとおりです。
 1.頭高型 (例) パンダ([パ]のあとで下がる )
 2.
中高型 (例) ニオイ([オ]のあとで下がる )
 3.
尾高型 (例) ユキ\ (助詞が付いた場合に、[ユキ\カ°]のように
        [キ]のあとで下がる )
 4.平板型 (例) サクラ( 下がり目がない、助詞が付いても
        [ラ]のあとで下がらない )

 さて、泉田行夫は、高低アクセントは、あくまで基本の型、一語一語の持つ型であって、これらを繋げて行う文章の音読となると、いろいろ変化が起こることを語っています。
 ・二つの音程の高低だけでなく、もっと多くの音程が存在する
 ・高低だけではなく、強弱、あるいは音楽で言うデクレシェンドなども影響する
ということになります。

 ここで解説を聞いてみます。

 しかし、これは単語のひとつひとつのアクセントの印をつけたようなものです。私たちは、その単語をいくつかを並べて話をしている訳ですが、この単語を続けて話をいたしますと、つけた印どおりのアクセントの言い方で話をしていないのに気づかれると思います。例えば、この作品の題の、「蜘蛛の糸」にしても、アクセントの印どおりに読むと、「く\もの」「い\と」、となります。「くものいと」といいますと、苗字が雲野で名前がイトという、女の人の姓名のような感じがしますね。私たちは、この文章の題として読むときは、「く\ものい\と」、と言います。これは、「蜘蛛の」の「く」に高いアクセントがあるために、そのあとに続いた「いと」のアクセントが弱められて、低く続くからです。「蜘蛛の糸」、お分かりでしょうか? 「いと」の方は平らになったように聞こえるでしょうが、決して「いと」のアクセントを失ったわけではなくて弱められて低くなっただけだと、お考えください。
   ※   ※   ※

 「くもの」をソミミと読めば、「いと」はソミではなくてファミとアクセントが少し弱められる。あるいは「いと」の「い」を「の」と同じ高さのミにしてソミミミドと一段低い高低となると言っています。と、いいながら、「い」のアクセントが弱められたために「と」はミよりも低くなっています。また、「ものい」を同じ高さの一つの言葉と表さず、「くもの」で切る、いや切るのでなく、「い」を少し強めのアクセントて(音程を上げるのではなく)「いと」という次の単語として読んでいます。
 ソミミ・ドと書いた方がわかりやすいかも知れません。いやもっと正確に言うと、ソとかミドとかの音程で表すことすら正しくありません。いずれにしても、「くものいと」が高低2音でできている、などという単純なものではありません。
 ためしに、ふつうの文章のすべての文字を同じ強さ、同じ間隔で、高低2音のみで読んでみてください。ロボットが読んでいるみたいに聞こえるでしょう。

 以前、日本語はだんだん音が下がっていく傾向があるので、注意して高く始め、新しい文章では「たてなおし」て高い音から始める必要性があると書いたことがありました。幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の P.78 にある「音が下がらないように」とも関係しています。

 くどくどと書きましたが、要するに、「日本語の高低アクセントはたいへん重要ですが、文章にしたとき、高低2音で成り立っているという単純なものではない」ということをご理解いただきたかったのです。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(7)

 『蜘蛛の糸』の朗読の研究、今回は(三)、もとの極楽の場面です。
 (二)は地獄での出来事。カンダタの感情の浮き沈みとともに、ハラハラドキドキいたしました。まさに激動の世界でした。
 (三)に入りますと、一転、この様子をごらんになっていたお釈迦様の姿と、極楽の風景です。まるで春のように穏やかな風景です。(一)と変わらない風景なのですが、悲しい事件の後だけに、お釈迦様のお気持ちを察すると、同じ景色であることが、ことさらに憂いをおびて見えます。

 解説です。

 そして、(三)に入りますと、極楽のお釈迦様へと話が戻ってまいりますが、お釈迦様のお気持ちを、心を込めて表現してみたいものです。そのあと、また、極楽の風景描写がでてきて、もとの明るさに帰って、話が終わる訳です。

 本文の朗読です。

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

 全体を通しての解説です。

 みなさん、本をいかに読んでいくか、ちょうど、絵かきさんが、絵を画いているあいだが楽しいように、朗読も、読み方をあれこれと探しているあいだが楽しいものですね。
 ま、私なりの説明になりましたが、それを思い返しながら、何度も「蜘蛛の糸」の朗読を聞いていただきたいと思います。そして、これを土台にして、自分の朗読を作り上げてみてください。
   ※   ※   ※

 幸田弘子先生は、「解釈こそ朗読だ」とおしゃいましたが、作品の持つ力を探り出し、作者の意図を探り出し、作者に代わっていかに伝えてゆくか、朗読の醍醐味はそこにあるように思えます。
 黙読で筋を理解して読む、ということと、声に出して内容を聞き手に伝えていくことの違い。そのために、この言葉がなぜ、この位置にあるか、何故ほかの言葉ではいけないのか。そんな読み方が、朗読には求められているのだと思います。

 また、朗読に「正解」があるわけではありません。みなさん、それぞれ個性があるのですから、それぞれの読み方があっていいのだと思います。
 泉田行夫は「指導すれば指導するほど、私の読み方に似てきてしまって大事な個性が失われてしまう。気を付けなければいけないことだ。」と語っていました。
 幸田弘子先生も、ご指導の折、読み手の個性についてはたいそう気を遣っておられました。

 とはいえ、音声表現するためには、それなりのテクニックも必要です。朗読の、発声発音の基礎についても、大切なことがらを泉田行夫は語っていますので、次回からそれらを解説したいと思います。

 その前に、もう一度、全編を、テキストなしで聞いてみませんか?
   (画像をクリック)


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(6)

 『蜘蛛の糸』の朗読の研究、今回は(二)の後半、いよいよ糸が切れるシーンです。
 (二)の最初は不気味な地獄の情景、カンダタのもとへ降りてくる蜘蛛の糸、喜び勇んでた繰り登るカンダタ、はるばる登って一息つくカンダタ、が描かれました。

 ふと見ますと蜘蛛の糸の下の方には罪人たちが同じように糸をよじ登ってきます。カンダタは焦ります。糸が切れて地獄に落ちるシーンは。「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(1)で聞いていただきましたが、今回は、その少し前からの解説です。糸の切れるシーンの迫力は、この少し前の部分の、カンダタの焦り、そしていとの切れるた事実を淡々と知らせるところの対比で聞いてみましょう。

 「ところが、ふと気が付きますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分の登ったあとをつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一身によじ登って」きますね。このカンダタの驚き。喜びの絶頂から突き落とされます。ここの変化もはっきりと表現したいものです。

 さあ、このあとはカンダタの焦りを出しますが、これもカンダタになった気持ちで、いらいらした表現で読んでいくと面白いでしょうね。この焦りがだんだんと高潮していって、ついに罪人たちを怒鳴りつけます。

 「こらあ~、罪人どもお~、この蜘蛛の糸は俺のものだぞ~、おまえたちはいったい誰に聞いて登ってきた~、おりろ~、おりろ~、と喚きました」。カンダタの声はぶら下がっている何十人、何百人の罪人たちに聞こえるようにと、「こら」ではなくて、遠くまで届くような、「こら~」と、こういう表現がいいと思います。

 さあ、そのあとは蜘蛛の糸が切れて、カンダタの落ちていく場面ですが、こういった、落下する早い場面の表し方は、文章の途中に入っている句点や読点をとってしまいまして、「ですからカンダタもたまりませんあっという間もなく風をきって独楽のようにくるくる回りながらみるみるうちに闇の底へまっさかさまに落ちてしまいました」と一気に読み下すと、スーッと落ちていく様子が出てまいります。

 その後は、もとの静寂に帰りますね。その表し方は、今の言い方と反対に、短く、プツッ、プツッ、と切って読むと、その感じが出ます。「あとには・・・ただ・・極楽の蜘蛛の糸が・・きらきらと細く光りながら・・・」、こんな調子ですね。
 いかがですか、このあたりが、「蜘蛛の糸」の一番盛り上がって、ふたたびもとの動きのない静に帰る、山場といえましょう。

 今回のこの部分を通して朗読で聞いてみます。

 ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

   ※   ※   ※

 いかがですか? あくまで朗読であって、講談のように、読み手の「語りの芸」でドラマを聞かせているものではありません。文学作品としての文章の持つ力、持つ雰囲気を大切に、聞き手に作者の意図を手渡しています。