言葉の音楽性(1)

 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の中で、「言葉の音楽性」に触れた箇所があります。

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 女優の村瀬幸子さんがおっしゃっていました。
「平井すみ子さんにお三味線を習ったとき、『日本の音楽には、旋律がある。それは日本語の旋律なのです』と言われた。その旋律をだいじにしていけば、小さい声でも意味がわかるように話せるはずです」
 言葉の音楽性がいかに大切か、ということを教えてくれる話だと思います。(p.75)
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 私は、幸田先生の読まれる『たけくらべ』の冒頭が大好きです。音楽性を感じるからです。

 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、

 大音寺前界隈の情景が語られ、やがて、信如、長吉、美登利、三五郎、正太郎について語られます。一巡して、それぞれの家庭の事情とそれぞれの複雑な心の内が語られていきます。
 ところが、突然、季節の移り変わりの記述が入ります。この部分が美しい。幸田先生も「朗読の楽しみ」の中で次のように述べられています。

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 作品のなかでも、やはり読みたい場所があって、その前のむずかしいとことを乗り越えてたどりついたときには、解放感も手伝い、とてもうれしくなるのです。
 『たけくらべ』の「春は桜の~」などは、その代表。いまでもあそこに来ると、身が引き締まって、さあ聞いてほしい、なんて、わくわくしながら読んでいます。朗読冥利に尽きる、といった感じがするのは、そんなときかもしれません。(p.111)
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 春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事此通りのみにて七十五輛と數へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懷爐灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそゞろ哀れの音を傳へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里の火の光りも彼れが人を燒く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町藝者が冴えたる腕に、君が情の假寐の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、此時節より通ひ初るは浮かれ浮かるゝ遊客ならで、身にしみ/″\と實のあるお方のよし、遊女あがりの去る女が申き、
 (キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より)

 この心地よさ。「言葉の音楽性」のなにものでもないように思います。

 さあ、いよいよここから、信如と美登利の「思い」の行き交う、あの「思ひの止まる紅入の友仙」が雨に打たれる切ないシーンへと進んでいきます。
 樋口一葉の「構成の妙」にも感動します。