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行間の余韻と部分カット(1)

 前回は、幸田先生の「走れメロス」の一部を聞いていただきました。ずいぶんカットもありました。
 幸田先生はカットについて「朗読の楽しみ」の中で、こう述べられています。

   ※   ※   ※
 朗読にとっては情景や動作などが克明に描かれすぎているという傾向は、ちょっとやりにくいところがあります。
 私は原作を大切にしますから、一字一句そのまま読むことが鉄則。ただし、どんな作品でも時間の制約があることが多いので、やむなくカットする部分が出てきます。そこで、どの部分を切るかが問題になるのです。<間>を生かすように切るというのが、そのときの原則になります。
 たとえば、「彼女ははっと驚いて一瞬息をのみ、そしてゆっくりした口調で『あなたが犯人なの』と言った」などという原文では、ぜんぶをそのまま朗読してしまうと、たんなる、<音訳>になりかねません。聞いているほうはドラマチックな山場を期待しているのに、それが山にならなくなるのです。
 そこで、たとえば「一瞬息をのみ、そしてゆっくりとした口調で」という箇所をカットし、朗読ではそこに十分な、<間>を入れてみます。
 「彼女ははっと驚いて、<間>『あなたが犯人なの』と言った」 
 要するに、カットする部分を、朗読の<間>やリズムで表現できるならば、そこはカットできることになります。(p.108)
   ※   ※   ※

 行間の<余韻>で情景をわかってもらう・・・う~ん、むずかしい!

 朗読では、セリフの一行をいかに感情豊かに読む、に留まらず、画像のない世界で、セリフに至る情景を的確に表現しつつ、聞き手に息を合わせておもむろにセリフが語られる。そしてそれを受けて相手が喋る。この相手も同じ読み手。そして続く地の文。これも同じ読み手。この一連の絶妙の<タイミング>、<間>を、朗読ではひとりがこなすことになります。
 <間>の問題と<セリフ>の問題がこんがらがってきましたが、実際に、この二つは別々に語っても意味がないのだと思います。
 朗読って奥深い、と思いませんか?


セリフの読みはむずかしい(8)

 これまで幸田先生のセリフを聞いていただきました。
 「たけくらべ」は録音室での朗読でした。「源氏物語~桐壺」は教室での朗読指導としてのプライベートな録音でした。
 さて、今回は、教室で30名ばかりの生徒のために読まれた「走れメロス」です。聞き手を前にしての朗読であって、ダイナミックも録音としての強弱の幅にこだわっておられませんので迫力があります。目の前の聞き手に、場面が伝わること、息を合わせることを意識して読まれているように思えます。声色(こわいろ)を使われていないのに、テンポ、間、抑揚、強弱で、誰のセリフかよく分かります。また、地の文との受け渡しも素直です。何よりも情景がひしひしと伝わってきます。

(テキスト)
 メロスは王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。・・・」(テキストおわり)

 物語には物語としての読み方があり、現代文には現代文としての読み方があるようです。録音室での朗読と、聞き手を前にした朗読とでも、違っていることがおわかりいただけたでしょう。
 セリフの読みはむずかしい。それは、セリフだからむずかしいのでなく、いかに作者の意図を解釈し、いかに作品の持つ雰囲気を壊さずに伝え、いかに聞き手に楽しんでもらうか、その試行錯誤の過程を言っておられるのだと思います。

 なお、文章を部分カットされたことについて、「朗読の楽しみ」に語っておられることがありますので、別の機会にお話ししましょう。


セリフの読みはむずかしい(7)

 幸田先生は、源氏物語の中のセリフをどう読まれたのでしょうか。

「桐壺」の「靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)の弔問」の部分を聞いてみます。
帝の寵愛を一身に集めていた桐壺更衣が男児(後の光源氏)を連れて宿下がりし、そのまま亡くなってしまいます。帝は嘆き悲しみ側近の女官・靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)を、桐壺更衣の母・北の方のもとへ弔問に派遣します。靫負命婦が弔問の言葉とともに帝の言葉を伝える場面です。靫負命婦の伝える帝の言葉も哀れですが、それを語る靫負命婦の言葉もまた品格のある情のこもった言葉です。
 現代文なら「 」 あるいは『 』で書かれるところですが、幸田先生はどう読まれるでしょうか。
(なおこの録音は、2013年10月に幸田先生が私のために特別に読んでくださった個人的なものです。)

 野分立ちてにはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、 靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。
命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、 めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞや八重葎にも障はらず差し入りたる。
南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。
今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生(よもぎふ)の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。
参りては、いとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむと、典侍(ないしのすけ)の奏したまひしを、 もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。
しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる とて、御文奉る。

 セリフとして読んでおられる訳ではありませんが、登場人物のコトバとして切々と訴えてきます。にもかかわらず、源氏物語の持つリズム、雰囲気が保たれています。

(参考)現代語訳(http://james.3zoku.com/genji/genji01.html
 台風の季節になり、にわかに肌寒くなった夕暮れ時、(帝は)常にもまして思い出すことが多くて、靫負命婦という者を遣わした。穏やかな夕月夜に出立させると、帝はぼんやり物思いにふけった。このような折には、更衣と管弦の遊びをしたものだが、ことに思い入れ深く音色はすばらしく、か細くでる言の葉も、きわだった容姿・面影も思い出され、それでも闇の現実にも及ばないのであった。
命婦は、更衣の里に着いて門より入ると、邸の様子にあわれを感じた。更衣の母のひとり住まいだが、ひとり娘を大事に育てるために、あちこちの手入れもし見苦しくない暮らしぶりであったが、娘を亡くして心の闇に沈んでいるうちに、雑草はのび、野分の風に庭も荒れ、八重葎もさわらず、さやかに月影が差し込んでいた。
南正面の客間に招じられたが、命婦も母君もしばらく黙して語らない。
「今日まで生き永らえたのがまことに憂きことなのに、このようなご使者が草深い所へお越しになるのは、身の置き所もありません」
と、堪えられずに泣きくずれた。
「『お見舞いにあがって、いっそう心苦しく、心胆も消え入るばかりでした』と典侍が奏しましたが、物思うことも知らないわたしのような者も感極まりました」
と、ためらいながら仰って、(帝の)言伝をお伝えした。
「『しばらくは夢かと思い惑いましたが、ようやく思いも静まると、覚めるものではなく、堪えがたい気持ちはどうすればよいか話し相手もいないので、お忍びで来てほしい。若宮も待ち遠しく、喪中のなかに過ごさせているのは、心苦しく早く参内してほしい』などと、はっきりと仰せにならず、涙にむせかえりつつ、また心弱くみられるているのではないかと周囲に気がねしているご様子に、お言葉を終わりまでお聞きできずに退出してきました」
と言って帝の文をお渡しした。


セリフの読みはむずかしい(6)

 いちばん話したかったことを書きます。それは、幸田先生の「セリフ」と「地の文」の「つなぎ」です。
 「(セリフ)と、言いました」という文章では、セリフを言い切って、少し間があって「と」と高い声で続けることがよくあります。または、この「と」を滑らかに続けるためにセリフをはじめから地の文として読んでしまうこともよくあります。
 しかし、幸田先生の「つなぎ」は違います。セリフのように聞こえていたのに、いつの間にか地の文に続いています。登場人物が感情豊かに話しているセリフと思って聞いているうちに、冷静な地の文になっているのです。芝居のように状況がよくわかるのに、いつの間にか文学に移っています。

 少し、聞いてみましょう。

 特に、「たけくらべ」という、もともと「 」などついていない文章だから、という考え方もあるかも知れません。独特のリズムを持つ「地の文」の中に組み込まれた「セリフ」を読んでおられるのだ、とも解釈できますが、とにかく、樋口一葉のリズムを壊さず、心地よい文学の朗読の中に、セリフが組み込まれてしまっています。
 もう少し詳しく分析すると、ひとつの文章の中で、初めはセリフとして大きな抑揚で読まれた文章が、途中から抑揚が抑制され、次第に落ち着いた地の文のナレーションに移り変わっていきます。これは見事です。

 どんな作家のどんな作品にもこれが通じる訳でもないでしょうし、同じ作品の中でも、いろいろに使い分けることもあるのでしょうが、「美しい日本語」を「朗読」する上で、とても参考になる「お手本」だとは思いませんか。


セリフの読みはむずかしい(5)

「たけくらべ」のテーマはセリフからも浮かび上がってきます。

 美登利が大人になってゆく様が、セリフを通して語られます。「セリフを読むのはむずかしい」というのは、実は、このセリフがこの小説の最も深いところを突いている場合があるからではないでしょうか。その読み方でこの朗読の本題の伝わり方が左右されるからではないでしょうか。

正太郎と美登利の会話

 好く似合ふね、いつ結つたの今朝かへ昨日かへ何故はやく見せては呉れなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭やでしようが無い、とさし俯向きて往來を恥ぢぬ。

美登利の母と正太郎の会話

 おゝ正太さん宜く來て下さつた、今朝から美登利の機嫌が惡くて皆なあぐねて困つて居ます、遊んでやつて下されと言ふに、正太は大人らしう惶りて加減が惡るいのですかと眞面目に問ふを、いゝゑ、と母親怪しき笑顏をして少し經てば愈りませう、いつでも極りの我まゝ樣、嘸お友達とも喧嘩しませうな、眞實やり切れぬ孃さまではあるとて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲團抱卷持出でゝ、帶と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥して物をも言はず。

美登利の胸の内と正太郎への言葉

 成事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顏ながむる者なしに一人氣まゝの朝夕を經たや、さらば此樣の憂き事ありとも人目つゝましからずば斯く迄物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事許りして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う七月十月、一年も以前へ歸りたいにと老人じみた考へをして、正太の此處にあるをも思はれず、物いひかければ悉く蹴ちらして、歸つてお呉れ正太さん、後生だから歸つてお呉れ、お前が居ると私は死んで仕舞ふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利くと眼がまわる、誰れも/\私の處へ來ては厭やなれば、お前も何卒歸つてと例に似合ぬ愛想づかし、

 【キングレコード 朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より】

 幸田先生がおっしゃる「読みの深さ」とは、樋口一葉がどんな気持ちでこの文を書いたかを理解しようと探り、どう読み手に伝えるかが重要なこと。そして、それを試行錯誤する努力のことを「セリフの読みはむずかしい」と表現されていたのでしょう。


セリフの読みはむずかしい(4)

 「たけくらべ」には、大人も登場します。
 重要な人物としては、「筆屋の女房」「正太郎の祖母」「おまわりさん」「美登利の母」といったところでしょうか。こうした話し言葉は「たけくらべ」の場合、地の文の中に組み込まれていることが多いようです。もっとも、樋口一葉は「 」などつけてはいません。見分けるのは読み手です。
 なお、音声は キングレコード朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く 樋口一葉 の一部を使わせていただいております。

正太郎の祖母と正太郎の友達との会話

まぢくないの高聲に皆も來いと呼つれて表へ驅け出す出合頭、正太は夕飯なぜ喰べぬ、遊びに耄けて先刻にから呼ぶをも知らぬか、誰樣も又のちほど遊ばせて下され、これは御世話と筆やの妻にも挨拶して、祖母が自からの迎ひに正太いやが言はれず、其まゝ連れて歸らるゝあとは俄かに淋しく、

近所の女房達のうわさ話

何と御覽じたか田中屋の後家さまがいやらしさを、あれで年は六十四、白粉をつけぬがめつけ物なれど丸髷の大きさ、猫なで聲して人の死ぬをも構はず、大方臨終は金と情死なさるやら、夫れでも此方どもの頭の上らぬは彼の物の御威光、さりとは欲しや、廓内の大きい樓にも大分の貸付があるらしう聞きましたと、大路に立ちて二三人の女房よその財産を數へぬ。

筆屋の女房と巡査と三五郎の会話

筆やの女房走り寄りて抱きおこし、背中をなで砂を拂ひ、堪忍をし、堪忍をし、何と思つても先方は大勢、此方は皆よわい者ばかり、大人でさへ手が出しかねたに叶はぬは知れて居る、夫れでも怪我のないは仕合、此上は途中の待ぶせが危ない、幸ひの巡査さまに家まで見て頂かば我々も安心、此通りの子細で御座ります故と筋をあら/\折からの巡査に語れば、職掌がらいざ送らんと手を取らるゝに、いゑ/\送つて下さらずとも歸ります、一人で歸りますと小さく成るに、こりや怕い事は無い、其方の家まで送る分の事、心配するなと微笑を含んで頭を撫でらるゝに彌々ちゞみて、喧嘩をしたと言ふと親父さんに叱かられます、頭の家は大屋さんで御座りますからとて凋れるをすかして、さらば門口まで送つて遣る、叱からるゝやうの事は爲ぬわとて連れらるゝに四隣の人胸を撫でゝはるかに見送れば、何とかしけん横町の角にて巡査の手をば振はなして一目散に逃げぬ。

 登場人物が目にうかぶようですね。

 「朗読の楽しみ」の中で幸田先生は次のように語っておられます。

   ※   ※   ※
 映画の黒澤明監督は、「役になりきって演じろ」とおっしゃっていたそうですが、役者はそれでいいのです。演出は黒澤さんにまかせておいて、カメラがそれをうまくとってくれればいい。
 しかし朗読はひとりです。だから、自分の中に演出家がいないといけません。完璧に役になりきってはならないのです。
 ・・・
 繰り返しますが、朗読しているとき、絶対に客観的な人が自分のなかにいること。つまり、演出家と演技者の両方がいないと、だめです。(p.85)
   ※   ※   ※

 そういえば、朗読では何人の役をひとりでこなすことになるのでしょう。掛け合いのタイミングも自分が決めます。そして、ナレーターも自分です。
 もっと言うと、演技をしても、表情は聞き手に見えません、まして所作も見えません。この状況のなかで絵のない映画を一本仕上げているわけです。そう考えると、朗読はすごい仕事に思えます。


セリフの読みはむずかしい(3)

 今回は、セリフの直接の話ではなく、ひとりの登場人物に焦点を当てたいと思っています。その人物は「三五郎」です。私は、「たけくらべ」の中でとりわけてこの三五郎に心を動かされます。

 三五郎にとって
「田中屋は我が命の綱、親子が蒙むる御恩すくなからず、日歩とかや言ひて利金安からぬ借りなれど、これなくてはの金主樣あだには思ふべしや、三公己れが町へ遊びに來いと呼ばれて嫌やとは言はれぬ義理あり、されども我れは横町に生れて横町に育ちたる身、住む地處は龍華寺のもの、家主は長吉が親なれば、表むき彼方に背く事かなはず、内々に此方の用をたして、にらまるゝ時の役廻りつらし。」
 三五郎は、3歳年下の正太郎に頭が上がりません。おどけた性格もあって、いいように使われています。

正太郎に「美登利さんを呼んで来い」と命令されて

「夫れならば己れが呼んで來る、萬燈は此處へあづけて行けば誰れも蝋燭ぬすむまい、正太さん番をたのむ」
と韋駄天走りに飛び出して行きます。
 その姿は
「横ぶとりして背ひくゝ、頭の形は才槌とて首みぢかく、振むけての面を見れば出額の獅子鼻、反歯の三五郎」「色は論なく黒きに感心なは目つき何處までもおどけて兩の頬に笑くぼの愛敬、目かくしの福笑ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり」
と酷評されています。一方で一葉の深い愛情がみてとれます。

 貧乏所帯の様子や奉公の様子も描かれます。
「貧なれや阿波ちゞみの筒袖、己れは揃ひが間に合はなんだと知らぬ友には言ふぞかし、我れを頭に六人の子供を、養ふ親もかじ棒にすがる身なり、五十軒によき得意場は持たりとも、内證の車は商賣ものゝ外なれば詮なく、十三になれば片腕と一昨年より並木の活判處へも通ひしが、なまけものなれば十日の辛棒つゞかず、一ト月と同じ職も無くて霜月より春へかけては突羽根の内職、夏は檢査場の氷屋が手傳ひして、呼聲をかしく客を引くに上手なれば、人には調法がられぬ、去年は仁和賀の臺引きに出しより、友達いやしがりて萬年町の呼名今に殘れども、三五郎といへば滑稽者と承知して憎くむ者の無きも一徳なりし」

 その三五郎が、正太郎の代わりに喧嘩の相手にされて、ぼこぼこに殴られます。
「此二タ股野郎覺悟をしろ、横町の面よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生ふざけた眞似をして後悔するなと頬骨一撃、あつと魂消て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、それ三五郎をたゝき殺せ、正太を引出してやつて仕舞へ、弱虫にげるな、團子屋の頓馬も唯は置ぬと潮のやうに沸かへる騷ぎ」

 三五郎は悔しがります。

「口惜しいくやしい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松め、なぜ己れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ唯死ぬものか、幽異になつても取殺すぞ、覺えて居ろ長吉め」

 三五郎は父親にもその気持ちをわかってもらえません。
「罪のない子は横町の三五郎なり、思ふさまに擲かれて蹴られて其二三日は立居も苦しく、夕ぐれ毎に父親が空車を五十軒の茶屋が軒まで運ぶにさへ、三公は何うかしたか、ひどく弱つて居るやうだなと見知りの臺屋に咎められしほど成しが、父親はお辭義の鐵とて目上の人に頭をあげた事なく廓内の旦那は言はずともの事、大屋樣地主樣いづれの御無理も御尤と受ける質なれば、長吉と喧嘩してこれこれの亂暴に逢ひましたと訴へればとて、それは何うも仕方が無い大屋さんの息子さんでは無いか、此方に理が有らうが先方が惡るからうが喧嘩の相手に成るといふ事は無いわびて來い謝罪て來い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られる事必定なれば、三五郎は口惜しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場處の愈ると共に其うらめしさも何時しか忘れて、頭の家の赤ん坊が守りをして二錢が駄賃をうれしがり、ねん/\よ、おころりよ、と背負ひあるくさま、年はと問へば生意氣ざかりの十六にも成りながら其大躰を恥かしげにもなく、表町へものこ/\と出かけるに、何時も美登利と正太がなぶりものに成つて、お前は性根を何處へ置いて來たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき」

 そしてこの話を締めくくる大事な情景で、三五郎は残像のように登場します。
「表町は俄に火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な/\の弓張提燈、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そゞろ寒げに、折ふし供する三五郎の聲のみ何時に變らず滑稽(おど)ては聞えぬ。」

 樋口一葉が、ここまで書き込んだのには、三五郎はこの「たけくらべ」のテーマにとても重要な登場人物なのだと感じます。
 「豪奢な廓町の世界と貧乏長屋」「金銭が物いう表町と人情の横丁」「打算うずまく大人の世界と無邪気な子供の世界」この裏表が「たけくらべ」のテーマだとすると、この二つの世界の中でたゆたう三五郎の姿は、子供から大人へ変わってゆく、いや大人になりきれない登場人物の一人としてまことに重要だと思うのです。私は、この三五郎に肩入れしすぎでしょうか。

 セリフの話から、だいぶ横道に逸れたようですが、こういう背景を考えるとき、少ししか出てこない三五郎のセリフもおろそかにされていない幸田先生の凄さを感じます。


セリフの読みはむずかしい(2)

 幸田先生のセリフは文学にぴったりはまり、誰のセリフかよくわかりました。
 先生は次のような考えでセリフを朗読されていたようです。

   ※   ※   ※
 私は、作者がはっきり「 」でくくっているセリフなどは、作中人物の心に寄り添って読むことにしています。それが作者の意図だと思うし、またどのような状態で言われるセリフなのか、聞いている人にもわかりやすいと思うからです。ただし、声色(こわいろ)は使いません。(「朗読の楽しみ」p.82
   ※   ※   ※

 とりあえず、少し、幸田先生の「たけくらべ」に登場する人物のセリフの部分を聞いてみましょう。
(いずれも、朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く キングレコード より)

①長吉(横町組の子供大將、歳は十六、仕事師の息子、帶は腰の先に、返事は鼻の先にていふ物と定め、にくらしき風俗)

 己れの爲る事は亂暴だと人がいふ、亂暴かも知れないが口惜しい事は口惜しいや、なあ聞いとくれ信さん、去年も己れが處の末弟の奴と正太郎組の短小野郎と萬燈のたゝき合ひから始まつて、夫れといふと奴の中間がばらばらと飛出しやあがつて、どうだらう小さな者の萬燈を打こわしちまつて、胴揚にしやがつて、見やがれ横町のざまをと一人がいふと、間拔に背のたかい大人のやうな面をして居る團子屋の頓馬が、頭もあるものか尻尾だ尻尾だ、豚の尻尾だなんて惡口を言つたとさ

②信如(龍華寺の跡取り息子。千筋となづる黒髮も今いく歳のさかりにか、やがては墨染にかへぬべき袖の色、親ゆづりの勉強もの)

 それではお前の組に成るさ、成るといつたら嘘は無いが、成るべく喧嘩は爲ぬ方が勝だよ、いよいよ先方が賣りに出たら仕方が無い、何いざと言へば田中の正太郎位小指の先さ

③美登利(全盛の遊女である大巻の妹。色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、物いふ聲の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり)

 これお前がたは三ちやんに何の咎がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜い、逃げもせねば隱くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此處は私が遊び處、お前がたに指でもさゝしはせぬ、ゑゝ憎くらしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ち、相手には私がなる

正太郎(質屋・田中屋のひとり息子。家に金あり身に愛嬌あれば人も憎くまぬ長吉の敵。祭りの日のいでたちは、赤筋入りの印半天、紺の腹がけ、しごいて締めし帶の水淺黄も縮緬の上染)

 美登利さん、夕べはごめんよ、、お祖母さんが呼びにさへ來なければ歸りはしない、そんなに無暗に三五郎をも撃たしはしなかつた物を、今朝三五郎の處へ見に行つたら、彼奴も泣いて口惜しがつた、己れは聞いてさへ口惜しい、お前の顏へ長吉め草履を投げたと言ふでは無いか、彼の野郎乱暴にもほどがある、だけれど美登利さん堪忍してお呉れよ、己れは知りながら逃げて居たのでは無い、飯を掻込んで表へ出やうとするとお祖母さんが湯に行くといふ、留守居をして居るうちの騷ぎだらう、本當に知らなかつたのだからね

 それぞれの登場人物の性格をみごとに表現されています。声色(こわいろ)を使っておられないのに、その人物が浮かび上がるように思えます。


セリフの読みはむずかしい(1)

 「朗読での読み方にはいろいろな考え方がありますが、とくにセリフについては議論百出です。地の文と同じようにたんたんと読むべきだという人もあれば、やはり話し言葉としてきちんと区別して読まなければとか、あるいはその中間とか……。」(「朗読の楽しみ」p.82 )
   ※   ※   ※
 この問題は、私には手に負えない問題です。避けて通ろうかとも考えました。しかし、幸田先生のセリフはすごく納得のいくもので、役柄がにじみ出ているのに、地の文とのマッチング感が素晴らしい。「どこが違うんだろうか」、という個人的感想の観点からですが、書いていこうと思っています。


「たけくらべ」冒頭(4)

 「たけくらべ」の冒頭のリズムについて幸田先生は次のように書いておたれます。

   ※   ※   ※
 この美しい書き出しではじまる『たけくらべ』をどう朗読すればよいか。しばらく前まで、そのことばかり考える時期がありました。
 ・・・・・
 美しい文章をただ美しく、表面だけなぞってみても、朗読とはいえないと思います。作品のなかにこめられた作者の呼吸感じとり、その息づかいを読み手の呼吸に合わせてはじめて、朗読という仕事がはじまるのではないでしょうか。
 ・・・・・
 でも読み返すうちに、こんなことに気がついたのです。冒頭の「けれど」の役目です。
 大門の見返り柳、お歯ぐろ溝‥‥‥、一葉の視線はつぎつぎに移動し、大門の裏手に当たる大音寺前で停止します。映画かテレビのカメラ・アイを思わせる視線の動きです。
 そして、大門と大音寺前を「いと長けれど」と結びつけることによって、吉原の表と裏の、二つの場所の関係を示すだけでなく、見返り柳の映像と、続いて導かれる大音寺前のそれとを、一瞬オーバーラップさせます。
 声に出して朗読すると、「廻れば大門の見返り柳」でいったん息の流れが切れ、ついで「いと長けれど」と続くことで、流れが転調します。そこに生じる瞬間が、見返り柳の残像の上に、大音寺前を重ねます。
 「けれど」で作者は、大門と大音寺前、吉原の表と裏の世界を、二重写しにしているのではないでしょうか。『たけくらべ』そのものが、この二重写しの構造の上に成立しているように思われます。遊びがすべての子供の世界と、金銭がすべての大人の世界との。(「朗読の楽しみ」P.146 )
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 う~ん、なんと深い分析でしょう。<間>とか<高さ>とかを論ずる前に、本当に理解しておかなければならないことは、こういうことなんですね。感服!