セリフの読みはむずかしい(4)

 「たけくらべ」には、大人も登場します。
 重要な人物としては、「筆屋の女房」「正太郎の祖母」「おまわりさん」「美登利の母」といったところでしょうか。こうした話し言葉は「たけくらべ」の場合、地の文の中に組み込まれていることが多いようです。もっとも、樋口一葉は「 」などつけてはいません。見分けるのは読み手です。
 なお、音声は キングレコード朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く 樋口一葉 の一部を使わせていただいております。

正太郎の祖母と正太郎の友達との会話

まぢくないの高聲に皆も來いと呼つれて表へ驅け出す出合頭、正太は夕飯なぜ喰べぬ、遊びに耄けて先刻にから呼ぶをも知らぬか、誰樣も又のちほど遊ばせて下され、これは御世話と筆やの妻にも挨拶して、祖母が自からの迎ひに正太いやが言はれず、其まゝ連れて歸らるゝあとは俄かに淋しく、

近所の女房達のうわさ話

何と御覽じたか田中屋の後家さまがいやらしさを、あれで年は六十四、白粉をつけぬがめつけ物なれど丸髷の大きさ、猫なで聲して人の死ぬをも構はず、大方臨終は金と情死なさるやら、夫れでも此方どもの頭の上らぬは彼の物の御威光、さりとは欲しや、廓内の大きい樓にも大分の貸付があるらしう聞きましたと、大路に立ちて二三人の女房よその財産を數へぬ。

筆屋の女房と巡査と三五郎の会話

筆やの女房走り寄りて抱きおこし、背中をなで砂を拂ひ、堪忍をし、堪忍をし、何と思つても先方は大勢、此方は皆よわい者ばかり、大人でさへ手が出しかねたに叶はぬは知れて居る、夫れでも怪我のないは仕合、此上は途中の待ぶせが危ない、幸ひの巡査さまに家まで見て頂かば我々も安心、此通りの子細で御座ります故と筋をあら/\折からの巡査に語れば、職掌がらいざ送らんと手を取らるゝに、いゑ/\送つて下さらずとも歸ります、一人で歸りますと小さく成るに、こりや怕い事は無い、其方の家まで送る分の事、心配するなと微笑を含んで頭を撫でらるゝに彌々ちゞみて、喧嘩をしたと言ふと親父さんに叱かられます、頭の家は大屋さんで御座りますからとて凋れるをすかして、さらば門口まで送つて遣る、叱からるゝやうの事は爲ぬわとて連れらるゝに四隣の人胸を撫でゝはるかに見送れば、何とかしけん横町の角にて巡査の手をば振はなして一目散に逃げぬ。

 登場人物が目にうかぶようですね。

 「朗読の楽しみ」の中で幸田先生は次のように語っておられます。

   ※   ※   ※
 映画の黒澤明監督は、「役になりきって演じろ」とおっしゃっていたそうですが、役者はそれでいいのです。演出は黒澤さんにまかせておいて、カメラがそれをうまくとってくれればいい。
 しかし朗読はひとりです。だから、自分の中に演出家がいないといけません。完璧に役になりきってはならないのです。
 ・・・
 繰り返しますが、朗読しているとき、絶対に客観的な人が自分のなかにいること。つまり、演出家と演技者の両方がいないと、だめです。(p.85)
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 そういえば、朗読では何人の役をひとりでこなすことになるのでしょう。掛け合いのタイミングも自分が決めます。そして、ナレーターも自分です。
 もっと言うと、演技をしても、表情は聞き手に見えません、まして所作も見えません。この状況のなかで絵のない映画を一本仕上げているわけです。そう考えると、朗読はすごい仕事に思えます。