セリフの読みはむずかしい(8)

 これまで幸田先生のセリフを聞いていただきました。
 「たけくらべ」は録音室での朗読でした。「源氏物語~桐壺」は教室での朗読指導としてのプライベートな録音でした。
 さて、今回は、教室で30名ばかりの生徒のために読まれた「走れメロス」です。聞き手を前にしての朗読であって、ダイナミックも録音としての強弱の幅にこだわっておられませんので迫力があります。目の前の聞き手に、場面が伝わること、息を合わせることを意識して読まれているように思えます。声色(こわいろ)を使われていないのに、テンポ、間、抑揚、強弱で、誰のセリフかよく分かります。また、地の文との受け渡しも素直です。何よりも情景がひしひしと伝わってきます。

(テキスト)
 メロスは王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。・・・」(テキストおわり)

 物語には物語としての読み方があり、現代文には現代文としての読み方があるようです。録音室での朗読と、聞き手を前にした朗読とでも、違っていることがおわかりいただけたでしょう。
 セリフの読みはむずかしい。それは、セリフだからむずかしいのでなく、いかに作者の意図を解釈し、いかに作品の持つ雰囲気を壊さずに伝え、いかに聞き手に楽しんでもらうか、その試行錯誤の過程を言っておられるのだと思います。

 なお、文章を部分カットされたことについて、「朗読の楽しみ」に語っておられることがありますので、別の機会にお話ししましょう。