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詩の鑑賞(2)「永遠」ランボー・中原中也

 幸田弘子先生の朗読された「詩」を鑑賞します。 アルチュール・ランボーの代表作「幸福」です。中原中也の訳です。
 これは、2019年6月27日、目白のアプリコットハウスでの公演の録音です。

   永遠

       アルチュール・ランボー  (中原中也 訳)

また見付かった。
何が? 永遠が。
去(い)ってしまった海のことさ
太陽もろとも去(い)ってしまった。

見張番の魂よ、
白状しようぜ
空無な夜(よ)に就き
燃ゆる日に就き。

人間どもの配慮から、
世間共通(ならし)の逆上(のぼせ)から、
おまへはさっさと手を切って
飛んでゆくべし……

もとより希望があるものか、
願ひの条(すぢ)があるものか
黙って黙って勘忍して……
苦痛なんざあ覚悟の前。

繻子(しゅす)の肌した深紅の燠(おき)よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ
やれやれといふ暇もなく。

また見付かった。
何が? 永遠が。
去(い)ってしまった海のことさ
太陽もろとも去(い)ってしまった。


詩の鑑賞(1)「幸福」ランボー・中原中也

 今回は、幸田弘子先生の朗読された「詩」を鑑賞します。
 幸田先生は「詩の朗読」についても著書に書かれておりますが、その内容は別の機会に置いておいて、とにかくひとつ、鑑賞してみましょう。
 アルチュール・ランボーの代表作「幸福」です。中原中也の訳です。
 この録音は、プライベートな会での記録です。幸田先生の解説もあります。

「幸福」アルチュール・ランボー  作 中原中也  訳


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(16)

 今回は「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説のまとめです。

 まず、朗読と解説2で聴いた解説をもう一度お聞きください。「全体の構成」の話です。

 さて、この蜘蛛の糸は、1、2、3と大きく3つに分かれておりますね。1は極楽のお釈迦様が中心で、私は、これを読むとき、静かな読み方をいたします。2は、カンダタの地獄脱出で、動きの多い表現をいたします。3はふたたび極楽のお釈迦様に焦点を合わせますから、静かに、つまり、静、動、静、と大きく掴んで読んでいきます。
 しかし、1だけを取り上げても、はじめに、ある日という時間のこと、お釈迦様は、という登場人物の紹介、極楽の場所の紹介などがありまして、次に、池の中に咲いている花は、と、極楽の風景描写に移ります。そして、次は、お釈迦様が池の中を覗かれる場面になると、はじめの説明紹介に比べて、お釈迦様が行動される、つまり、動きをだしていく読み方になります。こういう具合に、細かく、細かく変化を加えていく訳であります。
   ※   ※   ※

「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」の42ページに和田源三さんがこう書かれています。

作品を知ること

 事前に、以下のような要素についてよく考えます。「作品のテーマは何か?」「どんな文体で書かれているのか?」「物語を運んでいく『語り手』をどんな存在だととらえるか?」「登場人物はどんな役柄か?」「どんな構成で書かれているのか?」 
 いずれも、朗読全体のトーン、物語を語っていく際の口調、せりふの表現、構成感などを実際に声にするうえで欠かせない要素だからです。これらをおさえ、どう読むのかの「作戦」を立てたうえで、はじめて声に出して読み始めるようにしています。
 朗読は、読む人が作品をどうとらえるかによって表現に違いが出ます。その意味で、「自由度」が高く、「多様な表現」が許さる世界だと言えると思います。しかし、その「多様さ」は、以上のような事柄を踏まえたうえでの表現上の工夫の範囲を出ないと考えます。表現は、作品から逸脱したところには存在し得ないものだと思っています。
   ※   ※   ※

 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の24ページに次のような言葉が書かれています。

 自分のことでたいへん僭越ですけれど、文芸評論家の武藤康史さんが「文学を朗読で聴く」という文章ののなかで、次のようなことを述べてくださいました。私の朗読した樋口一葉を聞いたとき、一葉感がまったく変わってしまった。自分が読んでいたものよりはるかに上を行っていたと。
 あまりのお褒めの言葉で恐縮していますが、朗読にはたしかに、文字を超えて人間に伝わる、何か根源的な意味がこめられているのではないかと思います。

 幸田先生はこうおっしゃいます。

「朗読は、聞かせる相手がいる行為だ」
「朗読とは解釈だ」
「朗読は演奏です」
   ※   ※   ※

 何しろ、声は一回きり。聞き手が大切な言葉を聞き逃したら、後の話についてこられません。活舌よく、はっきりした発音で読むことも当然ですが、アクセントやイントネーションの間違いで雑念を起こしてもらっては元も子もありません。「妙なリズム」や「ちぐはぐな間」も聞き手の注意をそらす原因になります。
 「聞き手に手渡す」ことの重要性を、あらためて認識しました。
 そして真摯に作品に向かい合って、「自分が読んだ作品の感動を、自分の声で聞き手に伝える」ことができるように研究を積み重ねましょう。

 泉田行夫が解説の最後で語っています。

 みなさん、本をいかに読んでいくか、ちょうど、絵かきさんが、絵を画いているあいだが楽しいように、朗読も、読み方をあれこれと探しているあいだが楽しいものですね。
 ま、私なりの説明になりましたが、それを思い返しながら、何度も「蜘蛛の糸」の朗読を聞いていただきたいと思います。そして、これを土台にして、自分の朗読を作り上げてみてください。
   ※   ※   ※

 もう一度、泉田行夫の『蜘蛛の糸』を通して聞いてみてください。16回の解説を聞いたあとでは、また、新しい発見があるかもしれません。

 泉田行夫の『蜘蛛の糸』


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(15)

 今回は、「間」と「リズム」のお話です。
 「間」が「リズム」に乗っている・・・どういうことでしょうか。

 ところで、句点で続けるといいながら、実は、今、私の読んだのを聞いていて、私が、一箇所、切ったのに、お気づきでしたしょうか? 「みんな玉のように真っ白で」「その真ん中にある」、と、「真っ白で」のあと、ちょっと切っています。これは、ここで内容が変化しているからなんです。また、息がなくなって入れる「間」もありますね。それなのに、切れた感じを与えないのは、その「間」が読み方のリズムに乗っているときなんです。
 上手な人の朗読を聞いていますとちっとも切らないで話しているようだが、よく息が続くなあ、と、お思いになるでしょう。でも、やはり人間です。息を吐くだけで、入れなかったら大変ですよ。その息を入れる「間」を感じさせないのは、話し方のリズムの中に、「間」をいれているからなんです。
 「間」はリズムなり。この「間」の使い方が早すぎたり、遅すぎたりしますと、話し方のリズムが乱れてしまいます。これを「間抜け」というのです。
 いや、冗談を言ってしまいましたが、それはさておき、次に、読点、つまり文章の切れたところでは、次の文章との関係で、長い「間」にするか、短い「間」にするか、使い分けて、リズムを活かしてほしいものであります。
   ※   ※   ※

 「リズムを活かす」・・・ううん、むずかしい!


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(14)

 単調にならないための工夫のもうひとつについてお話しします。

 泉田行夫は、「句点だからといってプツプツ切りすぎない」と解説しています。

 もうひとつ、ここで申し上げたいことは、どの文章にも、句点、つまり、点を打っているところがございますね。これを読む場合には、内容が続いている場合なら、続けて読んでいく方が、聞いていて、よくわかる、ということです。句点のたびに、いちいち切る人がいますね。ぶつぶつ切れては、聞く人の頭に内容がまとまってはいりません。ちょっと、句点どおりに切って読む例をやってみましょうか? 「池の中に咲いているはすの花は」、「みんな玉のように真っ白で」、「その真ん中にある金色のずいからは」、「なんとも言えない良いにおいが」、「絶え間なくあたりへあふれております」。いかがですか。
 それから、ただ、続けると言っても、のっぺらぼうに続けるのではなくて、ちょっと変化をつけて続けますと、解りやすいですね。たとえば、「池の中に咲いているはすの花は、みんな、玉のように真っ白で」。こういった風に続けていく訳です。
   ※   ※   ※

 読むリズムと、書く時のリズムは一致しないことがあります。普段の会話のイントネーションを意識して、聞いている人がよくわかるような切り方を工夫してみてください。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(13)

 単調にならないための工夫のひとつについてお話しします。 

 泉田行夫は、「文章のあたまを、同じように言わない、と心がける」と解説しています。

 内容から表現の変化を出すのは当然でございますが、ちょっと、朗読のテクニックの面から、申し上げてみますと、
文章、文章のあたま、つまり、出だしのところを、いつも、同じように言わない、
と、心がけることです。
 出だしが同じだと、だらだらだらだらと、変化の無い話し方に聞こえます。
 ちょっとやってみましょうか? 「ある日のことでございます。」この「あ」を覚えておいてくださいよ。「ある日のことでございます。」「お釈迦様は極楽の蓮池の淵を」「ひとりでぶらぶらおあるきになっていらっしゃいました。」「いけの中に咲いている花は」、「みんな玉のように真っ白で」。
 いかがですか、どれもおなじような調子なので、居眠りが出てくるでしょう? 
   ※   ※   ※

 意識して朗読してみてください。意外と「おなじ調子」をやっていることに気がつきます。では、どう変えるか、、、簡単ではなさそうです。迷います。そう、それを楽しんでください。朗読の醍醐味です。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(12)

 今回は、「はじめは声をださないで内容を掴む」ということについて考えます。

 泉田行夫は、こう解説しています。

 一つの文章のどこを聞かせなければならないかを、つまり、そのポイントをしっかりとつかまえて読んでいくと、おのづから表現に変化が出てまいります。そのためには、まず、声を出さないで、何度も何度も読み返しているうちに、その内容が解ってきますから、どうしても声に出して読みたくなるのを待ってから、読み始めてください。はじめから声に出して読みますと、それが第一印象になって耳に残りますから、間違った掴み方をすることがあるからです。
   ※   ※   ※

 このことについては、このブログでも「朗読するまでの正統な手順」としてすでに述べています。
   「朗読するまでの正統な手順」はこちら

 NHKのラジオ講座テキスト「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」に、こんなことが書かれていました。

 話してみよう!~自然なイントネーションで~(p.44~p.47)

 「黙読」で魅力を発見!
 最初は声を出さずに読み、内容の把握をします。
 何よりも大切なのは作品のすばらしさ、魅力を味わうことです。なぜこんなに惹きつけられるのだろうか?どこが面白いのか?どこに感動するのか?を考えてください。
 朗読では、それを自分の声で伝えることが一番の中心になるのです。
   ※   ※   ※

 「夕鶴」で有名な山本安英先生(幸田弘子先生も大変尊敬しておられました)は、こんなことを語っておられたという記録が残っています。

 詩をうたいあげるというのは あげたり さげたりの調子の変化を心がけるのではなくて、その詩の内容に 自分の共感が結びついたところから それが豊かにふくらんで ひとつのリズムみたいなものが生まれるんじゃないかと思います
 わたし また こんなこともしてみるんです
 いきなり声に出すのではなくって 黙読をすることから始めるんですね
 何度も静かに黙読して、自然に声に出したくなった時に フーっと読みあげてみるんですけれど これは詩の内容に自分の体が入っていくためには大変いい方法とも思えるんです
 ただ まあ その黙読のしかたが 何か 固くなって緊張して字をにらむんではなくて 最初受けた自分の感動を逃がさないように 筋肉なども楽にして 適度な集中で黙読が大切だと思っております
   ※   ※   ※

 内容を掴む、共感する、読みたくなってから読み始める。いかがでしょう。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(11)

 今回は、「どこを聞かせなければならないかを、しっかりつかまえて読んでいく」、あるいは、「キーワードを丁寧に」ということについて考えます。

 泉田行夫は、こう解説しています。

 日常、人と話をしている場合でも、また、文章を読む場合でも、短いとか長いとかにかかわらず、それぞれ内容が違うんですから、内容によって表現も変化するのが当然です。この「蜘蛛の糸」で言うなら、「ある日のことでございます」というのと、次の、「お釈迦様は極楽の蓮池の淵を一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」と、この二つは、内容が違いますね。内容をよく知って読みましょう。そして、相手に本を読んで聞かせるというよりも、本の内容を話してやる、こういう表現でありたいと思います。 
 従って、一つの文章のどこを聞かせなければならないかを、つまり、そのポイントをしっかりとつかまえて読んでいくと、おのづから表現に変化が出てまいります。
   ※   ※   ※

 NHKのラジオ講座テキスト「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」に、こんなことが書かれていました。

話してみよう!~自然なイントネーションで~(岩井正・文 p.44~p.47)
 ストーリーの展開に不可欠な文と、それを補佐している文を見極めます。これを「幹の文と枝の文」あるいは、「主たる文と従たる文」のような言い方もします。
 さらに、それぞれの文の中でも大切な意味の固まりと、それほどでもない固まりに仕分けをします。
 あわせて主語と述語の関係、始めて出てくる固有名詞など大切なことば(キーワード)を見つけます。

 ニュースを読むときは「自然なイントネーション」が「基本」だと言いました。でも、実際のニュースでは、私たちアナウンサーは、ポイントになるキーワードを意識的に強調して伝えています。さまざまな表現で重要なことばを際立たせ、印象づけているのです。
 (黒沢保裕・文 p.88)

   ※   ※   ※

 だらだらと音声化するのではなく、キーワードにメリハリをつけて伝えてゆく、ということでしょうか。「あらすじが言えるか?」という解説に接したことがありますが、読もうとする文章を自分なりに把握できているかのチェックになるでしょう。そしてこれはキーワードを見つけるためにはいい方法だと思います。このキーワードのチョイスがまた、同時に「解釈」に関わってくるのでしょう。幸田弘子先生の「朗読は解釈だ」につながります。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(10)

 今回は、「文章の音声化」と「作品を伝える」ということの違いについて考えます。
 泉田行夫は、こう解説しています。

 さあ、それでは、朗読についての話に移りましょう。
 まず、あの人の話をきいていると居眠りが出る、と思うような話し方をする人がおりますね。これは、同じ調子が続いて、変化の無い話し方です。この「蜘蛛の糸」のはじめの部分を、そんな調子で読んで見ましょうか。
 「あるひのことでございます。おしゃかさまはごくらくのはすいけのふちをひとりでぶらぶらおあるきになっていらっしゃいました。いけのなかにさいているはすのはなはみんなたまにようにまっしろでそのまんなかにあるきんいろのずいからはなんともいえないよいにおいがたえまなくあたりへあふれております」。
 いかがですか。これでは聞いていて、居眠りが出てくるでしょう。音楽だって、タンタンタンタン、タンタンタンタン、タンタンタンタン、と変化が無かったら、聞いてはいられませんねえ。
 日常、人と話をしている場合でも、また、文章を読む場合でも、短いとか長いにかかわらず、それぞれ内容が違うんですから、内容によって表現も変化するのが当然です。この「蜘蛛の糸」で言うなら、「ある日のことでございます」というのと、次の、「お釈迦様は極楽の蓮池の淵を一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」と、この二つは、内容が違いますね。内容をよく知って読みましょう。そして、相手に本を読んで聞かせるというよりも、本の内容を話してやる、こういう表現でありたいと思います。
 従って、一つの文章のどこを聞かせなければならないかを、つまり、そのポイントをしっかりつかまえて読んでいくと、おのづから表現に変化が出てまいります。
   ※   ※   ※

 NHKのラジオ講座テキスト「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」に、こんなことが書かれていました。

 文字を音にしないで、意味を音に
 「読むを話すに近づける」ということは、書かれている文字を手がかりに、文字で組み立てられている文の意味を話していくということです。(p.46)

 幸田弘子先生のご著書「朗読の楽しみ」の中で、こう述べておられます。

 自分だけで読んでいると、おうおうにして読み方が「独善的」になる、という問題が生まれます。ひとりよがり、自己満足ということですが、そんな読み方だけでやっていては、自分でもものたりなくなったり、すぐにあきてしまう。人にも伝わらなくなります。・・・
 「聞き手にわかってもらう読み方」がここに出てくるのです。はじめて「作品を伝える」読み方に意識が向くわけです。(p.68)・・・
 「自分がわかっていないところは聞き手にもわからない」ということです。
 「聞き手にわからせるために、まず自分がわかっておくこと」
 読むときには、意味もつかめないまま読むのではなくて、やはり何が書いてあるか理解してから読む。あたりまえですね。(p.69)

 朗読と「文章の音声化」とはだいぶ違うようです。


「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(9)

 今回は、鼻音です。
 泉田行夫は、こう解説しています。

 次は、鼻音です。鼻の音と書きますが、がぎぐげご、でなく、がぎぐげご、と鼻を通して出す音です。においが、の「が」、地獄の「ご」、うごめいての「ご」などです。がぎぐげごの上に、「ン」をつけて言う感じです。「が」「ぎ」「ぐ」「げ」「ご」。この無声化と鼻音は、日本語の発音として、美しいということで、標準語の発音に取り入れられていますが、気をつけて何度も練習していると、できるようになるものです。

 註)本来鼻濁音の「が」は「か」に濁点の代わりに丸をつける(「ぱ」のように)ことになっていますが、このインターネットでは、特殊文字が表示できないので、「が」と表現しています。

 ちなみに、濁音が鼻濁音になる規則は、田代晃二著「美しい日本語の発音発音―アクセントと表現― 創元社」( P.34 )によると、
  ①ガ行音が<語中・語尾>にくれば鼻濁音となる
  ②語頭では鼻音化しない(合成漢語の後続部分の語頭も)
  ③擬声・擬態語は明瞭をたてまえとして語頭はもちろん語中も鼻音化しない。
  ④数詞も明瞭をたてまえとする純数詞は鼻音化しない。ただし数観念の弱い場合は鼻音化する。
  ⑤外来語は原則として鼻音化しない。古くからなじまれたもので鼻音化している語もある。

とありました。