「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(16)

 今回は「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説のまとめです。

 まず、朗読と解説2で聴いた解説をもう一度お聞きください。「全体の構成」の話です。

 さて、この蜘蛛の糸は、1、2、3と大きく3つに分かれておりますね。1は極楽のお釈迦様が中心で、私は、これを読むとき、静かな読み方をいたします。2は、カンダタの地獄脱出で、動きの多い表現をいたします。3はふたたび極楽のお釈迦様に焦点を合わせますから、静かに、つまり、静、動、静、と大きく掴んで読んでいきます。
 しかし、1だけを取り上げても、はじめに、ある日という時間のこと、お釈迦様は、という登場人物の紹介、極楽の場所の紹介などがありまして、次に、池の中に咲いている花は、と、極楽の風景描写に移ります。そして、次は、お釈迦様が池の中を覗かれる場面になると、はじめの説明紹介に比べて、お釈迦様が行動される、つまり、動きをだしていく読み方になります。こういう具合に、細かく、細かく変化を加えていく訳であります。
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「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」の42ページに和田源三さんがこう書かれています。

作品を知ること

 事前に、以下のような要素についてよく考えます。「作品のテーマは何か?」「どんな文体で書かれているのか?」「物語を運んでいく『語り手』をどんな存在だととらえるか?」「登場人物はどんな役柄か?」「どんな構成で書かれているのか?」 
 いずれも、朗読全体のトーン、物語を語っていく際の口調、せりふの表現、構成感などを実際に声にするうえで欠かせない要素だからです。これらをおさえ、どう読むのかの「作戦」を立てたうえで、はじめて声に出して読み始めるようにしています。
 朗読は、読む人が作品をどうとらえるかによって表現に違いが出ます。その意味で、「自由度」が高く、「多様な表現」が許さる世界だと言えると思います。しかし、その「多様さ」は、以上のような事柄を踏まえたうえでの表現上の工夫の範囲を出ないと考えます。表現は、作品から逸脱したところには存在し得ないものだと思っています。
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 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の24ページに次のような言葉が書かれています。

 自分のことでたいへん僭越ですけれど、文芸評論家の武藤康史さんが「文学を朗読で聴く」という文章ののなかで、次のようなことを述べてくださいました。私の朗読した樋口一葉を聞いたとき、一葉感がまったく変わってしまった。自分が読んでいたものよりはるかに上を行っていたと。
 あまりのお褒めの言葉で恐縮していますが、朗読にはたしかに、文字を超えて人間に伝わる、何か根源的な意味がこめられているのではないかと思います。

 幸田先生はこうおっしゃいます。

「朗読は、聞かせる相手がいる行為だ」
「朗読とは解釈だ」
「朗読は演奏です」
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 何しろ、声は一回きり。聞き手が大切な言葉を聞き逃したら、後の話についてこられません。活舌よく、はっきりした発音で読むことも当然ですが、アクセントやイントネーションの間違いで雑念を起こしてもらっては元も子もありません。「妙なリズム」や「ちぐはぐな間」も聞き手の注意をそらす原因になります。
 「聞き手に手渡す」ことの重要性を、あらためて認識しました。
 そして真摯に作品に向かい合って、「自分が読んだ作品の感動を、自分の声で聞き手に伝える」ことができるように研究を積み重ねましょう。

 泉田行夫が解説の最後で語っています。

 みなさん、本をいかに読んでいくか、ちょうど、絵かきさんが、絵を画いているあいだが楽しいように、朗読も、読み方をあれこれと探しているあいだが楽しいものですね。
 ま、私なりの説明になりましたが、それを思い返しながら、何度も「蜘蛛の糸」の朗読を聞いていただきたいと思います。そして、これを土台にして、自分の朗読を作り上げてみてください。
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 もう一度、泉田行夫の『蜘蛛の糸』を通して聞いてみてください。16回の解説を聞いたあとでは、また、新しい発見があるかもしれません。

 泉田行夫の『蜘蛛の糸』