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音が下がらないように

 幸田先生は、著書「朗読の楽しみ」の中でこう述べておられます。

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 普通に読んでいて おちいりがちなのは、長い文章のばあい、だんだん「音程」が下がってきてしまいうことです。
音が下がらないように、下がったら立て直して
 最初は元気に高い音で読んでいたのが、しだいに力がなくなって、音も低くなっていく。しまいには、口のなかでもごもごいうような「かそけき声」になり、他の作品の人にはぜんぜん届かなくなります。たとえばある文章がドの音で終わり、次の文章がその下のシで始まったりすると、もうだめ。聞いている人をを意識しないと、そういうことになりかねません。
 違う場面にきたら、その文章の切れ目でもういちど立て直す。「そこで立て直して」とは、やはり私がたびたび繰り返す注意です。(「朗読の楽しみ」P.78)
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 NHKのアナウンサーの方が書かれたテキストの中で、こんな例題を出されていました。
 ・総理大臣は緊急の措置をとる必要があると言っています。
 日本語のアクセントは「高低」と言われています。これを「ミ」と「ソ」で表してみます。
 そうりだいじんは(ミソソソミミミミ)
 きんきゅうのそちを(ミソソソミミミミ)
 とる(ソミ)
 ひつようが(ミソソソソ)
 あると(ソミミ)
 いって(ミソソ)
 います(ミソミ)
 この通り読むと、ロボットが読んでいるようで不自然です。自然に聞こえるために、普通こうなります。
 きんきゅうのそちを(ミソソソミミミミ)
 とる(ソミ)→(ミド)
 ひつようが(ミソソソソ)→(ドミミミミ)
 あると(ソミミ)→(ミドド)
 いって(ミソソ)→(ドド)
 います(ミソミ)→(ドド
別の言い方で言えば
 緊急の措置をとる・・・(ミソミ)
 必要があると・・・・・(ドミド)
 いっています・・・・・(
の三段階で読む音程が下がっていきます。
 このように、前の語を高く読み、続く語をもとの高さまで上げずに読んでいくことが多いのです。従って、この例のように()から始まった文が()で終わる、というようなことが起こります。

 そこで、幸田先生のおっしゃるように、次の文章は、もう一度、少なくとも(ミ)まで高さを戻さなければ、全体の音がどんどん下がっていきます

 どうですか?少し、幸田先生のおっしゃることの背景がご理解頂けたでしょうか。


高く始める

 前回は「さりとは陽気な町と住みたる人の申しき」まで聞きました。
続く一節は「始まりの音」に注目してみましょう。

音声プレーヤー

(朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く 樋口一葉  キングレコード より)

 「みしまさまの角をまがりてより是れぞと見ゆるいへもなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、あきなひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしきなりに紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし」と、太字で示したところを高い声で読まれていることがおわかりいただけるでしょう。
 なぜ高い声で始められているかは明確です。まだ句読点を用いる規則が確立していない頃の文章ですから、一文のようにみえますが、よく意味を検討すると、3つの文章から成り立っていることがわかります。そのそれぞれの文章を高く始められているのです。
 日本語には「高い音から始まって、低い音で収まる」という性質があります。このことについては、いつかお話する機会があると思いますので置いておいて、文章を高い音で始めますと、新しい文章が始まったことがよく伝わります。幸田先生がよく「立て直して」とおっしゃっていたことと関係があります。

音声プレーヤー

 もっとも、「高く始める」ことは絶対ではありません。あまり、同じ高さで始めることを繰り返すと、単調になってしまいます。また、演出上、意図的に低く始めることもあるでしょう。また、高くといっても程度もあり、他の語とのバランスもあるでしょう。あらゆる要素を加味しての「高さ」ですから、「高さ」だけをとりあげるのも誤解が生じそうです。
 しかしここでは、文章を「立て直す」ことの基本を幸田先生の朗読から理解してください。


「たけくらべ」冒頭(3)

 前回は「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」までを研究してみましたが、今回はその先を研究しましょう。
 「お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて」の部分を、幸田先生は、あまり大きな抑揚をつけず、むしろすらすら心地よいリズムに乗って読まれます。情景の描写的なところです。
 余談になりますが、吉原の遊郭は3階建ての立派な建物も多かったようです。町全体を囲む堀、すなわち「お歯黒どぶ」は五間、約9mもあったそうです。もっとも明治の初期には2間ぐらいまで埋め立てたそうですから一葉がみたのは4mぐらいだったかもしれなせん。
(出典: http://mag.japaaan.com)

やはりこういうイメージを持って読むと伝わり方も違うと思います。聞いていただくためには、読み手が充分情景を把握しておかなければなりません。
 続いて「大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き」ですが、「(歓楽街の喧騒と対比して)大音寺前と名は佛くさけれど」と、ちょっと滑稽に述べています。
 立て直して「さりとは陽気の町と」。この「さりとは」の「さ」は高く、「り」まで一気に下がり、「陽気の町と」は一番しっかり伝えたいことですから丁寧に、陽気に。そして満を持して「住みたる人の申き」と、しっかりテンポを落として締めくくられます。
 この冒頭の文章は、「まわれば」で聞き耳を立てていただき、地理的説明、界隈の雰囲気の説明があって、「(主人公たちが暮らす街は)、陽気な町なんですよ」と大事なことを伝えています。幸田先生の読み方で、その構造がはっきりわかります。
 もうひとつ、特にこの収めの「き」の力加減に聞き耳を立ててください。実に納得です。渡してくださった、溜飲が下がったとはこんな感じをいうのでしょうか。
 それでは、もう一度、幸田先生の「たけくらべ」冒頭の朗読の一文を聞いてみましょう。

音声プレーヤー

 たったこれだけの文章の中ですが、幸田先生の天才的な「演奏」を感じるのは私だけでしょうか。


「たけくらべ」冒頭(2)

 「たけくらべ」の冒頭を<間>を入れずに読んでみます。

音声プレーヤー

 なんだかそっけないですね。内容は通じましたか?「たけくらべ」を読んだことのある人や、テキストが傍らにある人なら、この読み方でも理解してもらえるかもしれません。しかし、「たけくらべ」を知らない人にとっては、「ちょ、ちょっと待って!」です。

 次に。幸田先生と同じところに<間>(ポーズ)をいれてみます。

音声プレーヤー

 ぷつぷつ切れているばかりで、わかりやすくなったとは言い難いですね。そうなんです。<間>と<ポーズ>とは別のものなのです。<間>は抑揚やリズムにも関係しているのです。

 ここで、「まわれば」に抑揚をつけて読んでみます。

音声プレーヤー

 少し<間>が不自然でなくなりました。普通の読み方では「まわれば」はミソソミの程度ですが、ここでは、「ミシシレ」ぐらい、一「ま」から「わ」に跳躍しました。しかし、まだ幸田先生の「まわれば」とは、違います。音程の問題だけではないのです。ピアノで鳴らすミシシレではなくバイオリンのようになめらか。まるで名人が筆で書いた真円のように、打ち込みの力強さ、歪のない真円、そして「ば」の音の収め方、見事です。この「まわれば」があってこその<間>といえます。
 この「ば」の収め方については研究の余地がありますので、いずれゆっくり語ることにしましょう。

 もう一度、幸田先生の「たけくらべ」冒頭の朗読を聞いてみましょう。

音声プレーヤー

少しご理解が進みましたでしょうか。

 ご承知ではありましょうが、これは、幸田先生の「たけくらべ」の録音用の朗読であって、他の作品を読まれる時や舞台朗読では微妙に違う読み方をされることでしょう。また、朗読というのはこうあるべきだというのでもなく、他の朗読家の皆さんの朗読もそれぞれ素晴らしく、決して否定するものではありません。あくまで研究としての分析です。


「たけくらべ」冒頭(1)

 幸田弘子先生が樋口一葉の「たけくらべ」を録音室で朗読されたものを聞いてみましょう。(朗読CDシリーズ「心の本棚~美しい日本語」名作を聴く より)

音声プレーヤー

 「たけくらべ」という題名を読まれる声はあくまで穏やかで、「これから、たけくらべ、というノスタルジックな物語を読みますよ」と知らせてくださいます。そして息を揃えるための緊張の<間>。
 おもむろに、樋口一葉が語りかけるように始まります。
 「まわれば」で、ふと息をするちいさな<間>があります。聞き手が「まわればって何を?」と興味を持ってくれる瞬間です。おもむろに続きます。「大門の見返り柳<短い間>いとながけれど」。ここで「ああ、吉原の話か。見返り柳が遠景にあるんだ」と納得してもらえます。

 幸田先生は、なぜ、「まわれば」で一旦<間>をいれられたのでしょう。

「まわれば」は何にかかるのでしょう。「大門」でも「みかえり柳」でもありません。「いとながけれど」、つまり、「大廻りすれば、ずいぶん遠いけれど」と続いてくるのです。この構造がわかるように、「まわれば」で<間>があるわけです。この二つの言葉にはさまれて「大門の見返り柳」が入ります。んぜ、「見返り柳」で<短い間>があるのでしょうか。それは、現代文的にいうなら「大門の見返り柳まで」と「まで」を入れてもいいようなところだからです。もっとも、ここに「まで」を入れたらリズムが台無しになります。
 そこで、「まわれば・・大門の見返り柳・いとながけれど、、、」という<間>になっているのでしょう。

 もう一度、この出だしの読み方、味わってください。

音声プレーヤー

 しかし、<間>だけで解決する問題ではなさそうです。


「間」について(2)

 幸田先生の<間>の素晴らしさは、計算されたもの、ではなく、先生の「作品に対する読みの深さ」と、長年にわたって積み上げられた経験、そして「聞き手の呼吸を引き寄せる感性」に裏付けされたものだったのでしょう。  
 たとえば、題名と出だしです。先ず、幸田先生が読まれた宮沢賢治作「蜘蛛となめくじと狸」の冒頭をお聞きください。(30名ほどの会でのライブ録音です)

音声プレーヤー

 「蜘蛛と<間> なめくじと<間> 狸 <緊張の間> 蜘蛛と、銀色のなめくじと、それから、顔を洗ったことのない狸とは・・・」と続きます。ゆっくり読む、というのとまた違うと思いませんか。 
 題の読み方は、あくまで、一語一語を手渡しておられます。続く、読み始めまでの緊張感。
 オーケストラの指揮者が、楽団の方を向いて、さっと指揮棒を挙げる、今、鳴り出すか、今、鳴り出すか、と集中する、あの感じに似ています。楽団と聴衆の、息の揃う瞬間です。
 朗読も同じです。聴衆の全員が、さっと耳を傾けるワクワクした緊張の瞬間があるのです。そして、おもむろに「声」が始まります。この声に魂がこもっていないと、聴衆はすっぽかされた感じになります。
 続く本文でも、この<間>は随所に現れますが、いかに小さな<間>でも、聞き手との息を合わせる魔法の力があるようです。<間>は、この「緊張感」と、「固唾をのむ息」と、「魂のこもった声」と、三拍子揃って成り立つもののようです。


「間」について(1)

 「間」について少し考えてみることにします。
 朗読において「間」が大切なこと、は百も承知です。ところが、どこで、どの程度、という問題になると、これは実に難しい。
 「間」は「息を合わせるため」に重要な要素なんでしょう。幸田先生と辻邦夫さんとの対話で、辻先生がこう述べておられます。「(朗読では)「間」のあいだにすべてのものが生きて、立ち上がって、ある世界をつくってしまう。(朗読の楽しみp.107)」 朗読で、読まない時間に聞き手が文章以上に深く状況を理解する、といった意味(いやもっと深い意味?)なのでしょうか。「間」が想像の世界を膨らませてくれるようです。
 優れた朗読を聞いて、何度も自分で試して、聞き手の引き込まれ具合がわかるようになって、はじめて自分の「間」にたどりつき、感動に誘うことができるのでしょう。読み手の「読みの深さ」と聞き手とのあいだに生まれる「共感」が関係しているのではないでしょうか。
 たくさんの朗読を聞かせていただきましたが、「間」が足りない、と感じるよりも、むしろ「連れて行ってもらえない」という感じでした。「勝手に先に進めないで!」「咀嚼するまで待って!」という「置いてきぼり感」に近いものです。「間」は単純な「無音の時間」ではなく、聞き手が「物語」の中で「たゆたっている」時間を阻害しないもの、想像を膨らませている刹那、そしてそれは、朗読のリズム、強弱、イントネーション、感動のゆれ、ハッとした気づき、にも関係するもので、「間」だけ独立しては語ることのできないものなのでしょう。

 と、理屈ばかり話しても、よく伝わらないので、次回は実際の「録音」を聞いてみましょう。

 


朗読は教えられない

 幸田先生は、「本当をいえば朗読なんて教えることは何もない。」(「朗読の楽しみ」p.72)とおっしゃいます。「自分でひとつひとつ発見していく、ただそれだけ。」
~ううん、きついですね。
 ただ、「文章がきちんと伝わるような読み方をする」ことがなにより大事だということだそうで、教室では、
 お腹から声を出して
 言葉を立てて
 文章の切れ目では、立て直して
ということは、よく注意されました。これらは、朗読の本来の目的である、明瞭に伝えるための重要なことなのでしょう。逆に
 間をあけて
 もっとゆっくり
 低い声で
などの朗読のテクニックに関する言葉はほとんど、ありませんでした。そういうことは、たくさんの良い朗読を聞いて、自分なりに工夫すべきこと、という意味だったのでしょう。
   ※   ※   ※
 とはいえ、この文章を読んでくださっている方は、きっと、幸田弘子先生のように上手に朗読したいとの思いを持っておられるに違いないので、これから、私なりに、10年間幸田先生の教室に通って発見したことなどを、わたしの父(朗読家・泉田行夫)の残した言葉も織り交ぜて綴ってみたいと思います。


「生の声」の魅力

 これまで、幸田弘子先生が、いかに作者の意図を誠実に伝えることを大切にされていたかをお話ししてきました。もう一つ大切にされていたことは、日本語の美しさを「生の声」で伝える魅力です。
 幸田先生の舞台朗読はマイクを持たないことが前提です。ナマの人間がナマの声で語りかけることを大切にされました。 
 「生の声からは、作品そのものがもっているはずの微妙な息づかいや間、音色のこまかい綾のようなもの、そして何よりも、作品本来が生まれたときにあった<いきいきとした感じ>が伝わるからではないか、と思うのです(「朗読の楽しみ」p.32)」、とおっしゃっています。
 たしかに、家でCDを使って聞く音楽と、わざわざでかけて演奏会場で聞く生演奏では、心のわくわく感が違います。音楽会にでかける前から音楽会は始まっている感じです。そして会場の緊張感。
 朗読の場合、語り手と聞き手の、息づかいのそろう一体感。
 幸田先生は「朗読は一期一会」とおっしゃいます。朗読は語り手と聞き手がいて、語り手がお渡しし、聞き手が受け取る行為です。聞き手と一緒に朗読はつくられる。朗読はその都度、一回限りのものです。その場でどんな化学反応が起こるか、その < いきいきとした感じ > が聞き手を前にした朗読の醍醐味でもあり、生の声でこそよく伝わるということではないでしょうか。


全身全霊を打ち込んだ結果

 「一葉自身が語っているようだ」という言葉に対して、幸田先生の長女・三善里沙子さんは、次のように解説しておられます。(幸田弘子の会2012年パンフレット)
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 極論かもしれないが、絵も文章も独りで書ける。作品は個人と切り離されるからだ。しかし、幸田弘子の舞台朗読は、聴いて下さる方がいなければ成立しない。しかも、そのときのお客様の“気”によっても、舞台は善し悪しに影響し大きく変化していくのだ。
 あるときはささやき声で、あるときは絶唱でお客様に届ける朗読は、全身全霊で朗読する幸田の世界を、また全身全霊で受けとめて下さるお客様の存在があって、初めて成立する特別な『結界』であり、聖域なのである。
 その結界が張られ、聖域になって初めて作者の魂が降りてくる。幸田弘子のカラダを使って、作者が思いを語ることができるのだ。
 「まるで一葉が乗り移ったようだ」などというお客様の言葉は、そういうことなのだろう。
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 幸田先生が舞台に向けて取り組まれる姿をいちばん近くで見てこられたお嬢様だからこそ、言えることばなのでしょう。