幸田先生は、源氏物語の中のセリフをどう読まれたのでしょうか。
「桐壺」の「靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)の弔問」の部分を聞いてみます。
帝の寵愛を一身に集めていた桐壺更衣が男児(後の光源氏)を連れて宿下がりし、そのまま亡くなってしまいます。帝は嘆き悲しみ側近の女官・靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)を、桐壺更衣の母・北の方のもとへ弔問に派遣します。靫負命婦が弔問の言葉とともに帝の言葉を伝える場面です。靫負命婦の伝える帝の言葉も哀れですが、それを語る靫負命婦の言葉もまた品格のある情のこもった言葉です。
現代文なら「 」 あるいは『 』で書かれるところですが、幸田先生はどう読まれるでしょうか。
(なおこの録音は、2013年10月に幸田先生が私のために特別に読んでくださった個人的なものです。)
野分立ちてにはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、 靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。
命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、 めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞや八重葎にも障はらず差し入りたる。
南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。
今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生(よもぎふ)の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。
参りては、いとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむと、典侍(ないしのすけ)の奏したまひしを、 もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。
しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる とて、御文奉る。
セリフとして読んでおられる訳ではありませんが、登場人物のコトバとして切々と訴えてきます。にもかかわらず、源氏物語の持つリズム、雰囲気が保たれています。
(参考)現代語訳(http://james.3zoku.com/genji/genji01.html)
台風の季節になり、にわかに肌寒くなった夕暮れ時、(帝は)常にもまして思い出すことが多くて、靫負命婦という者を遣わした。穏やかな夕月夜に出立させると、帝はぼんやり物思いにふけった。このような折には、更衣と管弦の遊びをしたものだが、ことに思い入れ深く音色はすばらしく、か細くでる言の葉も、きわだった容姿・面影も思い出され、それでも闇の現実にも及ばないのであった。
命婦は、更衣の里に着いて門より入ると、邸の様子にあわれを感じた。更衣の母のひとり住まいだが、ひとり娘を大事に育てるために、あちこちの手入れもし見苦しくない暮らしぶりであったが、娘を亡くして心の闇に沈んでいるうちに、雑草はのび、野分の風に庭も荒れ、八重葎もさわらず、さやかに月影が差し込んでいた。
南正面の客間に招じられたが、命婦も母君もしばらく黙して語らない。
「今日まで生き永らえたのがまことに憂きことなのに、このようなご使者が草深い所へお越しになるのは、身の置き所もありません」
と、堪えられずに泣きくずれた。
「『お見舞いにあがって、いっそう心苦しく、心胆も消え入るばかりでした』と典侍が奏しましたが、物思うことも知らないわたしのような者も感極まりました」
と、ためらいながら仰って、(帝の)言伝をお伝えした。
「『しばらくは夢かと思い惑いましたが、ようやく思いも静まると、覚めるものではなく、堪えがたい気持ちはどうすればよいか話し相手もいないので、お忍びで来てほしい。若宮も待ち遠しく、喪中のなかに過ごさせているのは、心苦しく早く参内してほしい』などと、はっきりと仰せにならず、涙にむせかえりつつ、また心弱くみられるているのではないかと周囲に気がねしているご様子に、お言葉を終わりまでお聞きできずに退出してきました」
と言って帝の文をお渡しした。