今回は、セリフの直接の話ではなく、ひとりの登場人物に焦点を当てたいと思っています。その人物は「三五郎」です。私は、「たけくらべ」の中でとりわけてこの三五郎に心を動かされます。
三五郎にとって
「田中屋は我が命の綱、親子が蒙むる御恩すくなからず、日歩とかや言ひて利金安からぬ借りなれど、これなくてはの金主樣あだには思ふべしや、三公己れが町へ遊びに來いと呼ばれて嫌やとは言はれぬ義理あり、されども我れは横町に生れて横町に育ちたる身、住む地處は龍華寺のもの、家主は長吉が親なれば、表むき彼方に背く事かなはず、内々に此方の用をたして、にらまるゝ時の役廻りつらし。」
三五郎は、3歳年下の正太郎に頭が上がりません。おどけた性格もあって、いいように使われています。
正太郎に「美登利さんを呼んで来い」と命令されて
「夫れならば己れが呼んで來る、萬燈は此處へあづけて行けば誰れも蝋燭ぬすむまい、正太さん番をたのむ」
と韋駄天走りに飛び出して行きます。
その姿は
「横ぶとりして背ひくゝ、頭の形は才槌とて首みぢかく、振むけての面を見れば出額の獅子鼻、反歯の三五郎」「色は論なく黒きに感心なは目つき何處までもおどけて兩の頬に笑くぼの愛敬、目かくしの福笑ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり」
と酷評されています。一方で一葉の深い愛情がみてとれます。
貧乏所帯の様子や奉公の様子も描かれます。
「貧なれや阿波ちゞみの筒袖、己れは揃ひが間に合はなんだと知らぬ友には言ふぞかし、我れを頭に六人の子供を、養ふ親もかじ棒にすがる身なり、五十軒によき得意場は持たりとも、内證の車は商賣ものゝ外なれば詮なく、十三になれば片腕と一昨年より並木の活判處へも通ひしが、なまけものなれば十日の辛棒つゞかず、一ト月と同じ職も無くて霜月より春へかけては突羽根の内職、夏は檢査場の氷屋が手傳ひして、呼聲をかしく客を引くに上手なれば、人には調法がられぬ、去年は仁和賀の臺引きに出しより、友達いやしがりて萬年町の呼名今に殘れども、三五郎といへば滑稽者と承知して憎くむ者の無きも一徳なりし」
その三五郎が、正太郎の代わりに喧嘩の相手にされて、ぼこぼこに殴られます。
「此二タ股野郎覺悟をしろ、横町の面よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生ふざけた眞似をして後悔するなと頬骨一撃、あつと魂消て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、それ三五郎をたゝき殺せ、正太を引出してやつて仕舞へ、弱虫にげるな、團子屋の頓馬も唯は置ぬと潮のやうに沸かへる騷ぎ」
三五郎は悔しがります。
「口惜しいくやしい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松め、なぜ己れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ唯死ぬものか、幽異になつても取殺すぞ、覺えて居ろ長吉め」
三五郎は父親にもその気持ちをわかってもらえません。
「罪のない子は横町の三五郎なり、思ふさまに擲かれて蹴られて其二三日は立居も苦しく、夕ぐれ毎に父親が空車を五十軒の茶屋が軒まで運ぶにさへ、三公は何うかしたか、ひどく弱つて居るやうだなと見知りの臺屋に咎められしほど成しが、父親はお辭義の鐵とて目上の人に頭をあげた事なく廓内の旦那は言はずともの事、大屋樣地主樣いづれの御無理も御尤と受ける質なれば、長吉と喧嘩してこれこれの亂暴に逢ひましたと訴へればとて、それは何うも仕方が無い大屋さんの息子さんでは無いか、此方に理が有らうが先方が惡るからうが喧嘩の相手に成るといふ事は無いわびて來い謝罪て來い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られる事必定なれば、三五郎は口惜しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場處の愈ると共に其うらめしさも何時しか忘れて、頭の家の赤ん坊が守りをして二錢が駄賃をうれしがり、ねん/\よ、おころりよ、と背負ひあるくさま、年はと問へば生意氣ざかりの十六にも成りながら其大躰を恥かしげにもなく、表町へものこ/\と出かけるに、何時も美登利と正太がなぶりものに成つて、お前は性根を何處へ置いて來たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき」
そしてこの話を締めくくる大事な情景で、三五郎は残像のように登場します。
「表町は俄に火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な/\の弓張提燈、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そゞろ寒げに、折ふし供する三五郎の聲のみ何時に變らず滑稽(おど)ては聞えぬ。」
樋口一葉が、ここまで書き込んだのには、三五郎はこの「たけくらべ」のテーマにとても重要な登場人物なのだと感じます。
「豪奢な廓町の世界と貧乏長屋」「金銭が物いう表町と人情の横丁」「打算うずまく大人の世界と無邪気な子供の世界」この裏表が「たけくらべ」のテーマだとすると、この二つの世界の中でたゆたう三五郎の姿は、子供から大人へ変わってゆく、いや大人になりきれない登場人物の一人としてまことに重要だと思うのです。私は、この三五郎に肩入れしすぎでしょうか。
セリフの話から、だいぶ横道に逸れたようですが、こういう背景を考えるとき、少ししか出てこない三五郎のセリフもおろそかにされていない幸田先生の凄さを感じます。