「たけくらべ」冒頭(4)

 「たけくらべ」の冒頭のリズムについて幸田先生は次のように書いておたれます。

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 この美しい書き出しではじまる『たけくらべ』をどう朗読すればよいか。しばらく前まで、そのことばかり考える時期がありました。
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 美しい文章をただ美しく、表面だけなぞってみても、朗読とはいえないと思います。作品のなかにこめられた作者の呼吸感じとり、その息づかいを読み手の呼吸に合わせてはじめて、朗読という仕事がはじまるのではないでしょうか。
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 でも読み返すうちに、こんなことに気がついたのです。冒頭の「けれど」の役目です。
 大門の見返り柳、お歯ぐろ溝‥‥‥、一葉の視線はつぎつぎに移動し、大門の裏手に当たる大音寺前で停止します。映画かテレビのカメラ・アイを思わせる視線の動きです。
 そして、大門と大音寺前を「いと長けれど」と結びつけることによって、吉原の表と裏の、二つの場所の関係を示すだけでなく、見返り柳の映像と、続いて導かれる大音寺前のそれとを、一瞬オーバーラップさせます。
 声に出して朗読すると、「廻れば大門の見返り柳」でいったん息の流れが切れ、ついで「いと長けれど」と続くことで、流れが転調します。そこに生じる瞬間が、見返り柳の残像の上に、大音寺前を重ねます。
 「けれど」で作者は、大門と大音寺前、吉原の表と裏の世界を、二重写しにしているのではないでしょうか。『たけくらべ』そのものが、この二重写しの構造の上に成立しているように思われます。遊びがすべての子供の世界と、金銭がすべての大人の世界との。(「朗読の楽しみ」P.146 )
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 う~ん、なんと深い分析でしょう。<間>とか<高さ>とかを論ずる前に、本当に理解しておかなければならないことは、こういうことなんですね。感服!