「間」について少し考えてみることにします。
朗読において「間」が大切なこと、は百も承知です。ところが、どこで、どの程度、という問題になると、これは実に難しい。
「間」は「息を合わせるため」に重要な要素なんでしょう。幸田先生と辻邦夫さんとの対話で、辻先生がこう述べておられます。「(朗読では)「間」のあいだにすべてのものが生きて、立ち上がって、ある世界をつくってしまう。(朗読の楽しみp.107)」 朗読で、読まない時間に聞き手が文章以上に深く状況を理解する、といった意味(いやもっと深い意味?)なのでしょうか。「間」が想像の世界を膨らませてくれるようです。
優れた朗読を聞いて、何度も自分で試して、聞き手の引き込まれ具合がわかるようになって、はじめて自分の「間」にたどりつき、感動に誘うことができるのでしょう。読み手の「読みの深さ」と聞き手とのあいだに生まれる「共感」が関係しているのではないでしょうか。
たくさんの朗読を聞かせていただきましたが、「間」が足りない、と感じるよりも、むしろ「連れて行ってもらえない」という感じでした。「勝手に先に進めないで!」「咀嚼するまで待って!」という「置いてきぼり感」に近いものです。「間」は単純な「無音の時間」ではなく、聞き手が「物語」の中で「たゆたっている」時間を阻害しないもの、想像を膨らませている刹那、そしてそれは、朗読のリズム、強弱、イントネーション、感動のゆれ、ハッとした気づき、にも関係するもので、「間」だけ独立しては語ることのできないものなのでしょう。
と、理屈ばかり話しても、よく伝わらないので、次回は実際の「録音」を聞いてみましょう。