「どうやったら人に作品を渡せるか、という謙虚な思いは、何度もその作品を一生懸命に読んで自分なりに解釈しておくことで、裏打ちされる必要があるのです。」(「朗読の楽しみ」p.38)
読み手は自分で、徹底的に「解釈」しなければなりません。「正しいと思われる解釈に向かって、日々努力していく、これが朗読の正しい姿ではないかと思います(同p.38)」、という言葉を残されています。
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幸田先生の樋口一葉作品の朗読は本を持たれません。あの小説全部の一語一語が、頭の中に入っているのです。先生には「暗記する」という意識はなかったようです。「本を見ないでも勝手に言葉が口から出て来るまで、徹底的に読んでおく」のだそうです。
幸田先生の場合、樋口一葉の作品を読むに当たって、一葉の別の作品を読むことはもちろん、日記を読む、ご遺族の方の話を聞く、研究者の話を聞く、一葉の住んでいた丸山福山町を歩いてみる、など、「一歩でも一葉の気持ちに近づきたい」、そんな気持ちで一葉の作品の朗読と向かい合っておられました。
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感動を伝えるためには、作品にほれ込んで、作品を深く解釈することが不可欠だということでしょう。