行間の余韻と部分カット(2)

 幸田先生の著書「朗読の楽しみ」の中で、「要するに、カットする部分を、朗読の<間>やリズムで表現できるならば、そこはカットできることになります(p.109)」とありました。
 しかし、このカット作業は幸田先生にとっても、それほど簡単なものではないようでした。上記の部分に次ぐ記述は、その苦労を述べられています。

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 <間>があるから伝えられるものもあるわけで、全部書きとってあると、ただ読むだけになるかもしれない。そうではなく、文章で書かれていないこと、いわば行間を読むというのが、朗読の醍醐味なのかもしうれません。私が古典を読む理由のひとつは、そこにあります。
 けっきょく、とくに現代文のばあいは、あるブロックをまとめて切るよりは、細かく刈り込んでいくことになります。CDやテープなどではもちろん、全文を録音することが多いのですが。
 舞台が近づくと、私はこの<剪定作業>に苦しむのです。自分で切り貼りして台本をつくるのが習い性になっていますので、もう必死。家族もピリピリしています。
 でも、けっきょくは心の問題という気がします。自分がどう読んだか、行と行のあいだをどう埋めていくか、書かれていないところをどう読むか。細かいテクニックは、そのあとの問題でしょう。
 現代文は、誰にでもわかる、誰でも読めるもの。しかしそれを、<間>も含めて心地よく聞かせるというのは、また別次元のことです。
 わざわざ来てくださる方に、朗読として楽しく聞かせるのはむずかしい。現代作品の朗読では、そういう苦労がつきまといます。(同 p.109)
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 朗読は、作者が命がけで書いたものを手渡す作業です。「長いからちょっとこの辺をカットしよう」、そんな軽い気持ちでカットするものではなさそうです。
 読み込んで、読み込んで、聞き手の気持ちと、作者の気持ちに寄り添って、命がけで、取り組むべきものなんでしょうね。「心の問題」だそうです。肝に銘じましょう。