「泉田行夫の『蜘蛛の糸』」朗読と解説(10)

 今回は、「文章の音声化」と「作品を伝える」ということの違いについて考えます。
 泉田行夫は、こう解説しています。

 さあ、それでは、朗読についての話に移りましょう。
 まず、あの人の話をきいていると居眠りが出る、と思うような話し方をする人がおりますね。これは、同じ調子が続いて、変化の無い話し方です。この「蜘蛛の糸」のはじめの部分を、そんな調子で読んで見ましょうか。
 「あるひのことでございます。おしゃかさまはごくらくのはすいけのふちをひとりでぶらぶらおあるきになっていらっしゃいました。いけのなかにさいているはすのはなはみんなたまにようにまっしろでそのまんなかにあるきんいろのずいからはなんともいえないよいにおいがたえまなくあたりへあふれております」。
 いかがですか。これでは聞いていて、居眠りが出てくるでしょう。音楽だって、タンタンタンタン、タンタンタンタン、タンタンタンタン、と変化が無かったら、聞いてはいられませんねえ。
 日常、人と話をしている場合でも、また、文章を読む場合でも、短いとか長いにかかわらず、それぞれ内容が違うんですから、内容によって表現も変化するのが当然です。この「蜘蛛の糸」で言うなら、「ある日のことでございます」というのと、次の、「お釈迦様は極楽の蓮池の淵を一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました」と、この二つは、内容が違いますね。内容をよく知って読みましょう。そして、相手に本を読んで聞かせるというよりも、本の内容を話してやる、こういう表現でありたいと思います。
 従って、一つの文章のどこを聞かせなければならないかを、つまり、そのポイントをしっかりつかまえて読んでいくと、おのづから表現に変化が出てまいります。
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 NHKのラジオ講座テキスト「NHKアナウンサーとともに ことば力アップ」に、こんなことが書かれていました。

 文字を音にしないで、意味を音に
 「読むを話すに近づける」ということは、書かれている文字を手がかりに、文字で組み立てられている文の意味を話していくということです。(p.46)

 幸田弘子先生のご著書「朗読の楽しみ」の中で、こう述べておられます。

 自分だけで読んでいると、おうおうにして読み方が「独善的」になる、という問題が生まれます。ひとりよがり、自己満足ということですが、そんな読み方だけでやっていては、自分でもものたりなくなったり、すぐにあきてしまう。人にも伝わらなくなります。・・・
 「聞き手にわかってもらう読み方」がここに出てくるのです。はじめて「作品を伝える」読み方に意識が向くわけです。(p.68)・・・
 「自分がわかっていないところは聞き手にもわからない」ということです。
 「聞き手にわからせるために、まず自分がわかっておくこと」
 読むときには、意味もつかめないまま読むのではなくて、やはり何が書いてあるか理解してから読む。あたりまえですね。(p.69)

 朗読と「文章の音声化」とはだいぶ違うようです。